2010年8月31日火曜日

8/13(金)、長篠城址

長篠城址に「長篠合戦図」として世に知られる絵のプリントが掲示してあった。設楽原古戦場を探訪してきた目で見ると、この図は殆ど「設楽原合戦図」。そして観察すると設楽原合戦の地理や戦闘の状況が実に正確に描写されている。戦場の狭さも誇張ではない、実際狭い。

これは正確な地図に設楽原決戦図と長篠包囲図を書きこんだものだが(右側の川の合流点に長篠城があった)、上の合戦図が如何に正確に描かれているかが見て取れる。

左の川が「寒狭(かんさ)川」右の川が「宇連(うれ)川」。二つの川に背後を完璧に防禦されて長篠城・本丸は立地していた。本丸の前方は平地。その前方は、濠が穿たれ土居が築かれ柵塀が設えられて幾重にも防御ラインが布かれていた。

この図は分り良いが、南北が逆転している

本丸を囲み防御する帯郭(おびくるわ)又は二の丸跡。右側の建物は長篠城址保存館

本丸と二の丸・帯郭の間の内堀と土居



本丸跡


本丸の内から見た土居

土居に上がる

土居の上

土居から見た二の丸・帯郭との間の濠跡

本丸と宇連川との間にあった野牛郭の中をJR飯田線が通っている

本丸の背後の鳶の巣山などの山々。武田包囲軍はこの山々にも布陣した、そして設楽ヶ原に戦場を移すときもこの山々の軍勢3,000だけは長篠城の抑えに残した。この抑えの軍勢が設楽が原合戦の当日、徳川軍別働隊の急襲を受けて狼狽し、その物音を織田徳川連合軍の総攻撃と早合点した武田勝頼が総攻撃を命じて運命の合戦に突入したという説がある。見たことのない鉄砲大部隊を前にして浅慮無謀な総突撃をいきなり敢行するなど愚の骨頂。この説の通りだった可能性はある。

本丸の背後の川に架かるJR線の鉄橋

本丸の背後を流れる寒狭川。本丸と川の間は50mの絶壁

本丸から望まれる寒狭川の対岸で「鳥居強右衛門(すねえもん)」が磔にされた。その壮絶な物語は心を揺さぶる。

「磔に散る烈士・鳥居強右衛門(すねえもん)」「5月14日、包囲する武田軍は長篠城に総攻撃を仕掛けた。城中の食糧はあと4、5日分だけ。その夜、鳥居強右衛門は、徳川家康へ救援を依頼する使者として長篠城を抜け出た。梅雨で増水した寒狭川へ下り、豊川を下ること4km。15日朝、かんぽう山で脱出成功の狼煙を挙げ、岡崎へ走った(長篠・岡崎間は50km)。岡崎には援軍の織田信長も到着していた。家康、そして信長の前で城の危急を訴え周りの人々も感動した。使命を果たして、休養を勧められたが、彼は直ぐ引き返した。16日の朝、再びかんぽう山で「援軍来る」の狼煙を3発。そして長篠城の対岸まで来たが、厳重に警戒する武田軍に捕らえられた。武田軍から「援軍は来ない、城を開けよ、武田軍は厚くもてなす」と呼ばわるよう説得されて長篠城の二の丸近くに立った(城は本丸と二の丸だけ残っていた)。しかし彼は「援軍は来る、この眼でしかと見てきた、あと二、三日堅固に守れ」と叫んだので、本丸の対岸の篠場野の地で磔にされた。強右衛門そのとき36歳。18日、織田徳川連合軍38,000が設楽原に着陣した。」

二の丸・帯郭の前。この平地に幾重にも防御の土居や柵塀が築かれていた。織田徳川連合軍が設楽が原に着陣したときにはそれらは皆突破され、残るは二の丸と本丸だけだった。

8/13(金)、中央構造線長篠露頭

所在地・新城市長篠字古渡15番地
「中央構造線は、日本列島の中央(関東から九州まで)を通る約1,000kmにわたる日本最長の断層系(断層の集まり)。この断層を境に北側(日本海側)を内帯、南側(太平洋側)を外帯と呼ぶ。ここ長篠露頭は、外帯の三波川変成帯の結晶片岩の上に、内帯の領家変成帯の花崗岩源圧砕岩が衝上し覆いかぶさっている様子のよく分かる断層。中央構造線の観察には非常に適した場所であり、はるか大昔の地球の活動を肌で感じることのできる場所」

因みに「紀ノ川」と「吉野川」はこの中央構造線の谷を一直線に貫いて流れる姉妹川。
下が太平洋側、上が日本海側





設楽原古戦場(二)

竹広激戦地。柳田前の隣の中央部での激戦地。。

竹広激戦地の碑から織田徳川連合軍の布陣した弾正山(当時は草山)を望む。

武田騎馬軍団の突撃進路。連吾川に架かる小橋が見える。

連吾川の橋上から見た上流・北方

同じく下流・南方

同じく西方の弾正山。

同じく武田軍の布陣した東方の山


竹広激戦地に立つ武田の武将「甘利郷左衛門信康」の石碑。傍に立て札があり、いろはカルタの「を」として「雄々しくも立ち腹さばく甘利信康」

柳田前激戦地。小山は織田徳川連合軍が布陣した弾正山。山の合間から山向こうの谷間が見えるが、そこに信長の本陣があった。

武田方から見た弾正山と馬防柵。


弾正山の北端(連吾川の上流)

弾正山の南端(下流)

竹広激戦地の連吾川でカワセミを発見。このカワセミ、しゃっくりの様な動きをし続けた。



長篠城に向かう道中で、武田の武将「馬場美濃守信房」の墓に遭遇、因みに馬場信房の墓は別の場所にもあった。

2010年8月30日月曜日

8/13(金)、設楽ヶ原(しだらがはら)古戦場

「設楽原の戦」「天正3年(1575)5月8日、武田勝頼は15,000の兵を率いて長篠城を取り囲んだ。城主奥平貞昌は城兵500と共によくこれを防ぎ、14日鳥居勝商の決死的な脱出により、織田・徳川の援軍を得ることに成功した。20日、武田軍は3,000の兵を長篠城の押さえに残し、織田・徳川連合軍38,000の布陣するこの設楽原に進撃した。戦いは5月21日、連吾川を挟み、織田・徳川の鉄砲隊と武田の騎馬隊が壮絶な戦闘を繰り返した。3,000挺の鉄砲と馬防柵の前に武田軍はほとんどの勇将、智将を失う惨敗を喫し、勝頼はわずかの兵に守られて甲州へ落ちのびていった」
初め設楽ヶ原が何処なのかさっぱり見当がつかなかった。それがこの案内板を発見して手掛かりを得た。次々と古戦場を探り当てた。

家康本陣跡には「八剣神社」が鎮まっている

この小山を横断して東に抜けると、設楽原の激戦地・最前線があった


連吾川こそ武田騎馬軍団を苦しめた川、小川。それに架かる柳田橋の上に立って下流・南方を見る。右方に織田徳川連合軍が馬防柵をめぐらし3,000挺の鉄砲を構えて布陣した。左方から武田騎馬軍団が突撃した。連吾川は小川だが、武田軍団の騎馬は立ち竦んだことだろう。

同じく上流・北方を見る。左方に馬防柵がめぐらされ、右方から武田騎馬軍団が突撃したことになる。

激戦地は連吾川に沿って四方面に展開していた。上流・北から順に大宮前激戦地(馬場信房軍突撃)、柳田前激戦地(内藤昌豊軍突撃、勝頼本陣前)、竹広激戦地(山県昌景軍突撃)、最下流・南端が勝楽寺前激戦地。柳田前は戦線中央の最激戦地。武田勝頼本陣の真下。

馬防柵が復原されていた

馬防柵の延長は2km余に及んでいた。決戦の正面となった連吾川沿いに三重の柵を構え、背後の弾正山を越えた西側を流れる大宮川沿いにさらに一重の柵を設けて万一に備えていた。



馬防柵は織田式と徳川式で違っていた。これは徳川式。


これが織田式。両軍の様式には、攻め口(出入口)の設け方に違いがあった

名和式「鉄砲構え」「乾堀と馬防柵と銃眼付きの身隠し(土塁)の三段構えだった」

乾堀

土塁

弾正山。この山(岡か)と目の前の連吾川の間に織田徳川連合軍は馬防柵を2km余にわたり張りめぐらせた。当時この山一帯は草刈り場で見通しが好かった、山全体に織田徳川連合軍は旗幟を押し立てていた。この山の裏・西に大宮川が流れその川を渡った先の小山に信長の本陣が布かれた。

馬防柵内から見た武田軍布陣の山々。早朝なので東方の武田軍陣地は逆光の中。
馬場信房軍陣地の山。武田軍はこの山を駆け下って突撃してきた。

武田勝頼本陣・観戦地の山

内藤昌豊軍が陣取った山

山県正景軍が陣取った山


弾正山・最前線を向こう側に下ると大宮川が流れそれを越えると幾つかの小山がある。織田徳川連合軍の大将クラスはそこに陣取った。
岡崎信康の陣。



どちらかの山が茶臼山、織田信長の本陣。羽柴秀吉は信長本陣の直ぐ北に陣取った。


日本史上有数の決戦の一つ「設楽原の戦」は意外なことに、小さな川を挟み、その川が造った狭い谷間で行われたのだった。鉄砲部隊の威力を最大にするよう戦場を指定し限定した信長の軍事的才覚は恐るべきものがある。