2011年4月26日火曜日

4/26(火)、道の駅の座式トイレの灯りで読書中。4/25(月)の旅程、海住山寺、西大寺、道明寺・国宝十一面観音、葛井寺

シガーライト電源は回復しそうもない、諦めた。昨日の道の駅は山奥で、さすがに田舎のトイレは不便で読書する気に毛頭ならなかったが、今日は奈良盆地の一角の道の駅に入って試しにトイレに坐ってみたら結構いけそう。内鍵を掛けると完全な個室。居心地も悪くない。ついでにパソコンを繋いでみたらこちらもいけた。それで、昨日と今日の経過報告だけでもと。
4/25(月) 藤井寺の「道明寺」に直行するだけでは時間と距離の無駄なので、行がけの駄賃に先ず南山城の「海住山寺(かいじゅうせんじ)」に寄った。国宝・五重塔がある。本尊は修理中で拝顔できず、代わりに本坊で重文・四天王を見せてくれた。次に「西大寺」に寄った。創建当時の規模が縮小したとはいえ見応えのある寺。そして藤井寺市「道明寺」へ。本尊・国宝十一面観音像の開帳日。間近に寄って見てもいいと言われて最高の鑑賞ができた。身の丈60cm程の小さな仏像。しかしどの角度から見ても造形的に勝れて美しい。ついでに近くの「道明寺天満宮」へ。さらに欲張って西国33所霊場第4番札所の「葛井寺(ふじいでら)」に脚を延ばした。午後5時閉門だがセーフ。「道の駅・ちはやあかさか」へ。
4/26(火) 槇尾山(まきのおさん)「施福寺(せふくじ)」へ。西国33所霊場第3番札所。山が高く深くて参った。それから千早城の前を通過して金剛山ロープウェイ乗場へ。標高1,125mの金剛山登頂を目指す。村営の楽しい諸施設がある地域と反対側を目指した。「葛木(かつらぎ)神社」に参詣。「転法輪寺(てんぽうりんじ)」には圧倒された。真言宗醍醐寺派の修験道総本山。正月、下醍醐・金堂前で僧列に続く修験者の列を見たが、彼らは転法輪寺の修験道僧であったか。下山して河南町の「弘川寺(ひろかわでら)」に寄った。西行がこの寺を終焉の地と選び永眠している。江戸時代に至り西行を敬愛する歌人僧「似雲」が遂に執念でこの寺の一角に埋もれていた西行の墓碑を発見。明日は京都の西辺りの探訪から始めようかなぁと。

2011年4月25日月曜日

4/25(月)、緊急事態発生

今日セレナのバッテリーに繋がるシガー火点け電源が機能しなくなった。この電源にボクはコンバーターのプラグを差し込んで、ボクの探訪旅行用七つ道具すべてに電気を補充供給していた。七つ道具の命がすべてこの電源にかかっていた。パソコン、携帯、デジカメ、髭剃り、みんな各自のバッテリーの今ある残り電力が切れたら一巻の終わり。電灯が点かないから読書もできない。ボクは電気を一切奪われた停電生活に入った。無宿流浪の旅は存続の危機に立たされている。無宿流浪の旅といいながら実は電気の恩恵にふんだんに浴し得てこその旅だった。こうなったら残る道は、ホテルに泊まって部屋のコンセントから充電しながら旅を続けるしかない。が、ボクの旅らしくなくて厭だなぁ。帰ろうかなぁ。気合が入らなくなって迷っている。今大阪府南方の道の駅・千早赤阪にいる。葛城山・金剛山の麓。楠正成の生誕地が目の前。わあぁ~(>_<)パソコンのバッテリーがなくなるぅ(/_;)。アッ今思い出したが、ボクらしい旅の道がもう一つあった。名所旧蹟の探訪を諦めて、絵を描く。デジカメを捨てて、絵筆・ナイフを手にする。あぁ、パソコンが力尽きようとし

2011年4月24日日曜日

4/24(日)、睡眠不足で湖東をウロウロと。竹生島・宝厳寺&都久夫須磨神社、大通寺、観音正寺、石馬寺

朝七時にお目覚め。南条SAの食堂で鯖定食を朝食に。北陸道を走っているうちに今日の日程が立った。先ず北陸道を長浜で下りて、長浜港から竹生島に渡る。竹生島は再訪になるがもう一度写真を撮り直す。最近になって竹生島「宝厳寺(ほうごんじ)」が西国33所第30番札所霊場であることを知ったので。10:15発の船に乗った。島到着10:45。迎えが来るまでの80分間が滞在時間。観音堂にくっついている唐門は国宝、豊臣秀頼が伏見桃山城から移築したという。本堂・弁天堂の本尊・弁財天も、観音堂の本尊・千手千眼観音も秘仏で、それも33年に一度しか開帳されないそうで面白くない。余命幾ばくもない吾輩には拝顔の機会は与えられない。眼で見ることを悲願とする吾輩には無縁の仏像達。狭い島内でくっつき合って共存混淆している「都久夫須磨神社」(ツクブスマ、ちくぶしまのことだろう)の本殿も国宝。観音堂と神社本殿は重要文化財「船廊下」で繋がっているんだが、この廊下、寺院のものとも神社のものとも判別がつかない。多分両者の間でも所有権の帰属が曖昧だろう。島出発12:05、長浜港帰還12:35。それから「大通寺(だいつうじ)」にも再訪。真宗大谷派・東本願寺の長浜別院で長浜市街地北方に立派な門前町を形成している。近時黒壁の街並として観光業界に売り出している一角も近い。それから安土町の「観音正寺(かんのんしょうじ)」に脚を延ばした。ここまでは朝決めた日程通り。この寺も西国33所霊場の一つ、第32番札所。火災で本堂と本尊を失ったが、最近本堂の落慶法要が営まれた。インド産の白檀の木で新作された千手千眼観音像は巨大。ここは戦国時代、佐々木源氏の観音寺城があった山頂だが、城砦を築くにはちょっと高山過ぎて実用実務に不向きかも。観音寺山を下山したらもう五時だったが行きがけの駄賃に山麓近くの「石馬寺(いしばでら)」を探訪。聖徳太子の建立伝承があるそう。古代風の勾配と段差のきつい石段を山中深く踏み入るとやがて石段が三方向に分岐する所に出る。石馬寺の参詣石段は右に折れて昇り、左に折れた道は六所神社に通じ、そして中央の石段はどこまでも登って行って雨宮龍神社に至る。神仏が混淆し自然に共存している古代中世的な世界が自然のままに現代に残っている。明朝の藤井寺市「道明寺」探訪に備えて今春三度道の駅「大和路へぐり」を目指して出発したが、考えてみたら今日は2時間しか睡眠時間を取っていないので無理をせず名神道「菩提寺PA」に入り込んだ。今夜はここで泊まる。栗東ICと竜王ICの間。

4/24(日)、水上勉「越前竹人形」を読んでいたら夜が明けた

寝入る前の一(ひと)読書のつもりで「司馬遼太郎講演集2」、五木寛之「青春の門・筑豊篇」の順で一節ずつ読み、水上勉の「越前竹人形」に手を延ばした。ら、途中で本を置く気にならず一気に読了。時計を見たら04:40。ビックリして空を見たら薄明。この小説は出掛けにセレナに持ち込んだ。先日「越前竹人形の里」を訪問し期待通りの竹人形を鑑賞して以来、かつて読んだこの小説の再読意欲が湧いていた。呪縛がかかったようにこの本を手離せなかったのは、ここ「南条SA」が小説の舞台・南条山地の山奥の竹神(たけかみ)村に近かったからではないか。読後感では、小説の舞台の竹神村の竹人形と丸岡近くの「越前竹人形の里」の竹人形とは全く由来系統を異にするようだ。水上勉の描いた竹人形は竹の皮が衣や髪などの素材として重宝されるが、「越前竹人形の里」では竹本体のみで勝負し皮を使うのは邪道と見做している。とにかく今日の睡眠不足は避けられない。この悪条件下となると行く先が限定される。近江国辺りをウロウロとf(~_~;)

2011年4月23日土曜日

4/23(土)晩、やっとこさ春の大遠征に出立

今、北陸道「南条SA」(福井県武生と敦賀の中間)に滑り込んだとこ。計画よりも一日半遅れ。この間、天気が全国的に勝れなかったからまぁいい。元気はあるから明日から頑張る。明日の予定は未定。若狭方面に向かい青葉山「松尾寺(まつのおじ)」あたりの探訪から始めるか、京に入り「龍安寺」あたりから始めるかというところ。京の真ん中にある「六角堂」(親鸞が比叡山を下りて籠った御堂)も気になっている。25日・月曜日は藤井寺市「道明寺(どうみょうじ)」の国宝十一面観音像の開帳日。是非拝顔したい。探訪したい所は山ほどある。この二週間、文字通り右往左往することになる。デジカメの撮影枚数は万に迫ろう。出掛けに居間の家族に「行ってきます」と言ってみたら、女房は「行ってらっしゃい、気を付けて」、おばあちゃん(義母)は「ご苦労さん、行ってらっしゃい」やと。

4/23(土)、春の大遠征はどうなっているか

未だ出掛けられずに七尾に居るf(-_-;)。仕事が手から離れない。週末休日なのに山崎さんにもお出まし願ってグズグズやっている。後の事は彼に任せてそろそろ出掛けねば。
民主党が、高速料金週末上限1,000円制を廃止すると言い出した。高速全線無料化をマニフェストにして政権奪取した党の言うことかッ<`ヘ´>無宿流浪の画家にとって致命的。もっとも大震災復興財源がどうしても足らないというのなら暫定的に我慢してもいいが、そのためにはバラマキ・票トロール・衆愚政治を反省して全面的に見直せ。寄せ集め集団の素人政治家どもが「政治主導」などと妄想を口走るのはもういい加減にしろ。それにしても九州や東北に遠征するのはもう遠い夢か(/_;)。これが余命幾ばくもない者に対する仕打ちかッ(`´)

2011年4月21日木曜日

4/21(木)、春の大遠征に出かける

勝手に立てた予定では春の大遠征は明日・金曜日から始まることになっていた。天気も好いらしい。しかし仕事が片付かないので明日の出立は無理。土曜日は天気が悪いらしいがその日あたりか。旅に出たら丸々二週間帰らない。GWが三回連続してある様なもの。これまでの春の長旅では必ず絵を描いたが、今年はどうなることか。これまでは絵になる風景があちこちにある信州方面を含めた東に進路を取ったが、今年は西に向かう。東は大震災の火事場泥棒に行くみたいで気が進まない。果たして西に絵になる風景が――半日を一所で費やして悔いない感動的風景があるかどうか、それが問題。それに現況吾輩の心は風物探訪に凝っている。先ずこの眼で見て回ること、それを眼と脳が求めている。女房は好い季節になったんだから絵を描いて来いと迫るんだが。ゆとり一杯の流浪の旅だから絵を描くゆとりもあろうと思うが、西日本で絵になる感動的情景に遭遇するかどうか。旅で見たものはできるだけ報告するつもり。事務所の山崎さんが旅費支給のため日数を数えたら18日間にもなるそう。えっそんなにと吾輩も思うが、余命幾ばくもないんだから何をやっても許される筈。無論無宿流浪の気まま旅で行く。

2011年4月20日水曜日

4/9(土)、国宝十一面観音像、全七像勢揃い写真

観音寺の本堂の片隅で写真を購入していたら、そこの机の上に、何と国宝十一面観音像全七体の勢揃い写真が展示してある。こんな貴重な写真には生涯お目にかかれないだろう、そう直感して撮ってもいいですかと住職に尋ねると「いいですよ」と答えてくれた。ただカバーが掛けられていて不自然な反射光が生じて写りは悪い。が、そんなことはどうでもいい位に貴重。
法華寺
向源寺・渡岸寺(どうがんじ)観音堂
室生寺
観音寺
聖林(しょうりん)寺
六波羅蜜寺
道明寺(どうみょうじ)

4/9(土)、南山城「蟹満寺(かにまんじ)」、国宝・釈迦如来坐像と対面

観音寺から蟹満寺へ。さほど遠くない。蟹満寺はご覧の通り新築本堂と小さな観音堂だけで鐘楼もない。宇治拾遺物語に蟹の恩返し説話が取り上げられている古刹にしては寂しい。 創建は飛鳥・白鳳時代末期680年頃というから本物の古刹。往時は堂塔伽藍を備えた大寺だった。
新築されてピッカピカの本堂。この中に国宝・釈迦如来座像がおわします。
国宝・釈迦如来坐像。金銅仏(以下、解説写真集「蟹満寺」より引用) 。平成17年の調査で、寺創建の白鳳時代末期からここに坐しておられたということが判明。
↓白毫(びゃくごう)が額にない。造仏当初からなかったらしい。仏師ができるだけ人間味のある仏像にしようとしたからという仮説が有力。

指の間に「水掻き」がはっきりついている。衆生をできるだけ多く掬いとって救済するため。

4/9(土)、南山城「観音寺」、国宝・十一面観音立像拝顔

午前中醍醐寺で花見、それから宇治の三室戸寺を経て城陽市へ南下。南山城の菜の花畑の奥に観音寺はあった。いよいよ国宝・十一面観音像と対面できる、と思うと興奮を覚えた。これが本堂。何故か観音寺は大御堂とも呼ばれている。

この本堂の中に国宝・十一面観音立像は立っておられた(以下、本堂で購入したA4版写真より引用)。

本堂以外に残されている堂宇は、この鐘楼のみ。
旅の健気な友・セレナの雄姿。

2011年4月19日火曜日

4/16(土)、越前竹人形の里(4)

乙女拾





遊里
越前竹人形を見た人は殆どいないのではないか、水上勉の小説に「越前竹人形」があるのを知る人はあっても。今紹介したこの素晴らしい人形たちがその越前竹人形たち。竹という不思議な自然素材の性質をそのまま活用した芸術。竹繊維の一直線性、節の微妙多様性、幹の絶妙な反り捻り、そして竹肌の風合の味。