2009年8月11日火曜日

新潟県はデカイ!

石川県から車で富山平野を走り親知らず子知らずの険を越して新潟県に入ると、そのあと新潟県の長大さに辟易させられる。僕は地理好き少年だったから小学校時代に北陸三県と新潟県の面積人口比較をやったことがあった。結果は当時の僕の地理的常識に反した。面積は《富山県+石川県+福井県(但し敦賀以西の若狭国を除外)=新潟県》だった。人口もほぼ同様の結果となった。越後の国(=新潟県)は大国(大県)なのだ、上杉謙信は大国を宰領したから天下の名将たりえた。北陸三県は結び付きが結構強いが、北陸三県と新潟県との結び付きは殆ど希薄。因みに北陸三県同士では、富山県と石川県は強く結び付いているが、福井県はどうやら富山・石川県の仲間と見られるのを好まぬらしい。京・大阪か名古屋圏に近いと思っているらしい。さて北陸三県と新潟県の関係に戻るが、古代には併せてみんなで《越の国》だった。それが飛鳥時代に都に近い方から越前・越中・越後の三国に分割された。さらに能登・加賀両国が分離されるが、二つの国は越前国から分国された、この点ちょっと意外なんじゃぁ。意外といえば能登国の分国の方が早くて奈良時代初め。加賀国は平安時代になって漸く分国された。能登・加賀両国の境目は押水の大海川だったらしい。越前国と若狭国の境界は敦賀の西にある関峠(従って敦賀は越前国に所属)。越後国の版図・北限――これが得体が知れない。元は弥彦山(弥彦神社)辺りまでが北限だったらしい(その先は蝦夷地)。それが一時は後の出羽の国まで延びたらしい。出羽国が分国されるに及んで越後国は現在の新潟県の版図とほぼ一致するに至った。これだけ前置きしてやっと僕が今日書きたかったことに入れる。

新潟県を旅すると天気予報でも何にでも直ぐに「上越(じょうえつ)」「中越(ちゅうえつ)」「下越(かえつ)」という三分類語に出くわす。どうやら越後国(新潟県)全体の地域区分だという察しはつく。京の都に近い方から遠い方に上・中・下だということも察せられる。分らないのは境目。何せ長大で北に版図が段々伸びた過去があって小県育ちの身にはピンと来ない。それが写生旅行で新潟県を走り回っていてやっと分った。代表的な市を振り分けると、糸魚川・上越(高田・直江津)が「上越」、柏崎・長岡・三条が「中越」、新潟・新発田・村上が「下越」(下越が広大、上越は狭小)。新潟が「下越」に分類されているところが意外で面白い、僕は当然「中越」だと思っていた。長岡は下越の新潟を歴史的に見てきっと見下している、元は田舎(蝦夷地)だという訳。地理歴史好きとしてはこんなことが感じられただけで楽しい――それだけの話。

2009年8月9日日曜日

お釈迦様は、仏像と同じ顔をしていた。

お釈迦様を生み出した釈迦族の支配領域は北インド、今のネパール南部地域らしい。TVを見ていたら或る番組でネパール南部に住む人々の風俗が映し出された。その中に仏像・菩薩像と全く同じ面相・顔立ちの人達が生きて登場したのには驚かされた。かねて僕が不思議に思ってきたことの一つに、仏像はどうしてああいう仏像顔になったのだろうというのがあった。答えは何のことはない、お釈迦様(ゴータマ・シッダルタ)の生前の顔そのままだったのだ。仏像の面相は地方・時代によって多少の変遷変容はあったにしろ基本的にお釈迦様の顔の生き写し像だった。それにしても不思議な面相・顔立ちの人達(種族)があったもの。

2009年8月7日金曜日

山下清に見る芸術家の資質

山下清には芸術家魂がある、貼り絵を見てそう感ずる。そして彼の人格・能力が単純だから芸術家としての資質が透けて見える。僕の目に見える山下清の芸術家性とは、①常に瑞々しい心に働く新鮮な関心興味、②関心興味のままに行動する旺盛な活動力、③自然風景モノを見て関心興味を惹き、感動し、そして刻明に記銘する記憶力、④記銘した自然風景モノを表現しようとする抑え難い創作意欲、⑤創作(制作)意欲が生み出す驚異的な根気・集中力。貼り絵の大作を見ればそれが途方もない根気・集中力の産物であることが分る。これらの資質が備われば、表現技術・センスは「好きこそものの上手なれ」の格言通り無限に上達し磨かれる。少年時代の稚拙な貼り絵から出発して後年の信じ難い根気と集中力の賜物である「長岡の花火」「ロンドンのタワーブリッジ」などの大作に至る過程は、芸術家というものの成長過程を実に単純明快な形で示してくれている。山下清は花火を見るのが好きでどこそこに花火大会があると聞くと居たたまれずに歩き出し飯を乞い金を恵んで貰いながら見物に行った。大した根性。関心興味に普通ここまで純粋に殉ずることが出来るだろうか。山下清の人生・生き様は彼が芸術家魂の持主だったことを感じさせる。

「彩の会」

「彩の会」でモデルを描いた。未だ途中。

2009年8月6日木曜日

《山下清》展を見てきた。

石川県七尾美術館で《山下清》展をやっている。《アスペルガー症候群》と芸術的才能の関係に最近関心を持っているので早速見てきた。

山下清は大正11(1922)東京生まれ。3歳の時重い消化不良になりその後遺症として軽い言語障害が残ったという。言語障害が消化不良の後遺障害なのか生来のものか或いは両方相俟った結果なのかは定かでないが、彼の貼り絵に示された才能は《アスペルガー症候群》者の示すパターンの一例に見える。

山下清は旅先で関心興味を持った風景を旅から戻ってきてから絵にした。現地で描いたわけではない。記憶力は大変強かった。貼り絵作業も大変根気のいる仕事。絵にしようとする制作意欲が並外れて旺盛。普通の精神薄弱者とは明らかに一線を画している。やはり山下清は《アスペルガー症候群》者と見るべきだろう。

《アスペルガー症候群》者にも様々なタイプがあるだけでなく、同じタイプの中でも能力に程度の差が大いにある。知能の高低で表わされるような差異。山下清は知能程度の低い方だとすれば、知能程度の高い方の代表者は《ピカソ》《ゴッホ》《アインシュタイン》《エディソン》ら。これら天才の才能は眩(まばゆ)過ぎてその正体を見定めることは(太陽を見つめた時の様に)困難。その点山下清は、ヒトの才能とは何か、画家とは何モノかを見つめ考えるのに恰好。そういう意味で彼の人生と遺作は芸術とは何かを論ずるのに貴重。《山下清展》を見て僕なりに得たものを後日報告しよう。

2009年8月3日月曜日

ヒグラシ(カナカナ)が鳴き出した。


鷹合川を散歩すると裏手の山でヒグラシが盛んに鳴き出した、アブラゼミを差し措いて。もう晩夏と勘違いしているんじゃないか(アブラゼミの方は未だ夏が来ないと勘違いしている)。やっぱりこの夏はおかしいか。カナカナを聞きながら僕は昆虫少年だった昔を思い出した。小6の夏休みに僕は七尾で採集できるすべてのアゲハ蝶、トンボそして蝉を捕まえて標本を作ろうと決意した。そして捕まえては展翅板で形よく乾燥させて綺麗な標本を作って悦に入っていた。その夏真黒に日焼けしてほぼ目的を遂げた。蝉類は――油蝉、ニイニイ蝉、ツクツクボウシ、ヒグラシ、ミンミン蝉といった顔触れ。残念だったのはクマゼミ(熊蝉)がいなかったこと。図鑑で調べると南方の蝉で北陸地方にはいなかった。それが十数年前、家族旅行で渥美半島に向かう道中の蒲郡のレストランの駐車場で熊蝉に出会って感動した。駐車場の脇に欅の若木が数本立ち並んでいて近づくとシャーシャーと蝉の声が降ってくる。アッ熊蝉だと直感して見上げると何と熊蝉がウヨウヨとくっ付いている。

少年時代に憧れた熊蝉にあっさりとふんだんに御対面。僕は素手で数匹捕まえて車中に閉じ込めて観察しすっかり満足してからその場で解放してやった。少年時代なら手当たり次第に採集し七尾まで持ち帰っていた。僕も大人になっていた。

2009年8月2日日曜日

抽象絵画はそんなに偉いか。

戦後の日本画壇を一時期抽象画が席捲したそう。抽象画でなければ絵にあらずと言われたそう(平家に非ずんば人にあらず、を連想)。そのような風潮を盛り立て煽り立てたのは美術評論家と画廊と相場が決まっている。そういう時代に孤塁を守った一人が僕の人物画の師・八野田博先生の師匠・中村琢二画伯(一水会会員)。先生が師匠に弟子入りを許されたときの条件は抽象画に染まらないことだったそう。その条件はこう切り出された――ところで君は突拍子もないことを考えてないだろうな、写実を基本とする心掛けなら指導してやろう。あの高光一也でさえ一時期抽象画に膝を屈した。彼の無残な抽象画?を見たことがある(数多の魚らしきものが画面一面に布置されていた。具象的な抽象画?←如何にも無意味だなぁ)。絵画の抽象性とは何か――これは考えてみるだけのことはありそう。

抽象画は、写実(具象の写生)を排し、色・形だけで絵を構成する。

抽象画の開祖はカンディンスキーだそう(モンドリアン説もある)。カンディンスキーは視聴覚連合野の機能が異常に発達した人で視覚と聴覚の「共感覚」に基づいて絵を描いた。リズム感(聴覚)を画面(視覚)で表現。凡人が彼の絵と如何にして付き合うかは真剣なテーマ。この検討を抜きにしてカンディンスキー流の抽象画を奉ることは殆ど無意味。

パブロ・ピカソの絵は抽象画か?真正抽象画家?の立場からは問答無用で否定される。実際ピカソはモデルなしで絵を描いたことは一度もないと告白している。ピカソの絵はモノの見え方の探究の成果、分類的には具象絵画。彼の場合も、彼の資質の特異性を理解しなければその絵を理解できない。ピカソは告白している、自分は言語表現に障害がある(特に文章表現が苦手)、スケッチブックに毎日身辺の事をスケッチするのは日記の代わりだと。最近NHKの特集番組で或るアスペルガー症候群の若い建築士のことが放映された。その若者は文章表現に障害がある、その代わりかモノの立体視に異常な才能を発揮する。ピカソも同様のアスペルガー症候群であった可能性が大きい。ピカソの立体視は常人も同様に視覚しているわけではない。大抵の美術評論家もキュービズムを体感して奉っているわけではない、ピカソの立体視の異能(天才)を信じて論じているだけ。

常人的立場から画家になった一人がアンリ・マチス。小川琢二はマチスを愛した。彼らが探究したのは色の綺麗さと形の単純さ。小川琢二は俳諧趣味だったがさもありなん。彼らは彼らで写生の中に素敵な絵画的世界を探り当てている。

抽象表現は果たして画面による制約や道具を使って描くことの制約と馴染むのかどうかという問題があるが、僕にはそんなことに関心が向かない。絵画となれば「画面」に「描く」という制約から脱出できまいと思っている。

抽象絵画と雖も視覚に頼るしかない。視覚は実に具体的で、抽象的視覚などは存在しない。抽象画と雖も視覚的に見て描くしかない。何を見て描くのか。画面、画面のみ。画面上のシミ、色、形などに着目しそれを発展させて画面を構成していく。視覚に基づく行為という観点から抽象絵画を定義するならそれは、画面のみを見て描き、描く行為を積み上げて画面を色・形で構成するものであり、画面外の自然界の対象(具象)は決して見ないで描くものとするしかない。僕はこれを「画面only構成主義」と命名する。

絵画の本質を画面(平面)に描く行為と見抜いて自覚的に自然(立体)を画面(平面)に描くことの意味を探究した先駆者はセザンヌ。セザンヌの有名な言葉――自然は「円錐」「円柱」「球」という三種の立体で出来ているという言葉を真に受けてはいけない。彼は、自然(対象)は悉く立体的でありそれを平面(画面)に写そうとすることには本質的に無理があるということを指摘しようとした。画面は写実する場でなく、画面として独自に絵画的に(描く行為によって)構成する場だと主張した。僕はセザンヌの立場を「画面構成主義」と名付ける。セザンヌが抽象絵画に道を開いた人と評価されるのは理由がある。因みにセザンヌも自然やモデル(対象、具象)を見ずに描いたことは一度もない。抽象画家では決してない。

抽象絵画とセザンヌの絵画との違い。セザンヌは対象(立体)と画面(平面)の関係を切断して画面を写実主義の縛めから解き放ち「画面構成主義」を実践したのであるがしかしあくまで見て描く対象を世界・自然のモノにおくことを放棄しようとしなかったのに対し、抽象絵画は見て描く対象を画面そのもの(画面only)に限定してしまった(「画面only構成主義」)

人が視覚を使い何を見て感動するのかということが抽象画、具象画の価値を決める。カンディンスキーは聴覚的リズムを感じさせる抽象的視覚画像に価値を見出せたが、非カンディンスキー達も同様に価値を見出せるとは限らない。