2019年4月27日土曜日

〇2019+4+27(土) 鳥取で鳥取城跡と仁風閣、倉吉で白壁の蔵と赤瓦の街並、蒜山高原,大山で船上山

〇朝来から鳥取まで100km近くあった。10時半、鳥取城に到着。城の扇御殿後に明治40年に建築された重文「仁風閣」を見学。この洋館は、大正天皇が皇太子時代に鳥取県に行啓されたとき、その行在所として元鳥取藩主池田侯爵が馳走した。
↓久松山。山頂に天守があった。




 ↓城の石垣と仁風閣

 ↓二階の食堂
〇倉吉に寄ることに。三朝(みささ)温泉を通るルートを行く。国宝「投入堂」で有名な三徳山(みとくさん)三仏寺の前を通る。この寺、ボクは何年か前に訪ねた。どうしても国宝や重文の建造物に逢いたくて。しかし何と、連れがないと(単独行では)それらの建物がある危険な山中には立入禁止。そこはロッククライミングの場面が続く修験道の世界らしい。こんな寺は外にない。
倉吉は、白壁の蔵と赤瓦の街並で聞こえる。一見するために寄った。




 ↓たい焼き・たこ焼き店。たい焼き一匹を買い食い。
〇蒜山高原に登る。岡山県にある。子供達と行った時の美しい風景が忘れられずにもう一度行ってみることに。しかし低気圧が来ているらしく小雨模様で大山は見えず仕舞い。凍えた。ボクが絵を描いている間に子供達が遊んだレジャーランドは今もあった。

 ↓晴れれば大山が見える

〇かつて夕陽を背景に見た船上山(せんじょうせん)にも再訪。衝撃的な姿の山だった(マグマが冷えて柱状節理を成している。東尋坊が山の上にあると思えば分りが好い)。それが逆光で好い写真が残らなかったので再挑戦することに。ところが小雨の中の撮影となり今回もまた好い写真にならなかった。



↑この山は日本史に登場する。後醍醐天皇が、島流しにされていた隠岐を脱出し名和氏が勢力を張っていた本土海岸に上陸し、地侍豪族の名和長年の加勢を得てこの船上山山頂の金石寺(こんしゃくじ)に立て籠もった。そして攻め上って来た北条方の軍勢を下して亰へ向かう。
〇船上山から日本海に向けて真っ直ぐ下って海岸に出たら道の駅赤崎があった。夕方6時。今日はここで泊まる。この道に泊るのは二度目ではないか。


2019年4月26日金曜日

〇夕方、夜久野の道の駅「農匠の郷・やくの」に到着。

〇夜久野(やくの)は、福知山を過ぎて30kmほど西、朝来(あさご)の手前にある。福知山はまだ京都府、朝来は兵庫県。この道の駅に泊るのは三度目か。温泉銭湯に横付けし、別棟の立派な食堂も9時頃までやっている。そのせいで車が集まり易いのかいつもほどよく駐車していて泊り易い。朝来から鳥取までは60kmほどか。

〇明日第一番の訪問は、鳥取城跡に建つ重文近代建築物「仁風閣」。鳥取城は、秀吉の兵糧攻めにあって降伏し、吉川経家一人が腹を切って籠城していた守兵全員の命が救われたという城。秀吉は東播三木城の兵糧攻めが膠着状態に陥った合間を縫って鳥取城に手を出して攻略した。

〇2019-4-26(金) 久方ぶりに旅に出る。只今wifiの試験中

〇久し振りに旅に出る。行く方面は、舞鶴若狭ルートを伝って福知山に出、以降国道9号線を辿って鳥取市に行く。その道中で野宿することになろう。鳥取市からは国道9号線で山陰をひたすら行く。主な目的地は、津和野、萩、長門、福岡、武雄、熊本、鹿児島。鹿児島でUターンして九州山地の山奥・椎葉村に入るところまでは計画したが、その後は計画が未定。行ってみなければ分らない。今ハリアー車内で、パソコンが作動の道具が揃っているか、wifiが効くか試験中。
それでは出発します。

2019年4月19日金曜日

〇2019-4-18(木) 七尾市「小丸山公園」の夕花見

公園入口登り坂の袂にある「利家とまつ」の銅像。以前は坂の上の第一公園にあった。
 ↓第一公園。前田利家の七尾城入城時の本丸にあたる。
 日像上人の銅像

 市街地の上に夕月がかかっていた。
 ボクのデジカメは、値段は安いが光学倍率40倍。
 ↓第二公園に行く途中に見た七尾港
 ↓第二公園


 ↓公園の岡を下って久方ぶりに阿良町の「へぐら」に行き花見酒を飲んだ。
 いろりの炭火がほっこり照っていた。

2019年4月4日木曜日

〇2017-8-5(土) 水戸天狗党、敦賀で刑死。「松原神社」

〇水戸天狗党は1000余名で挙兵し亰へ向かった。諏訪・和田峠を越え、木曾中山道を妻籠まで辿り、美濃路に至って、彦根・大垣藩軍の迎撃に遭い、進路を越前大野にとった。雪深い木の芽峠を越え、敦賀・新保宿に至って加賀藩軍の包囲に遭い降伏した。加賀藩は浪士軍を厚遇した。が、幕府軍に引き渡されると処遇が一変し天下の罪人にされた。ほどなく353名が斬首された。その余の者も遠島等の処分となった。刑場は、松原神社の向いの寺の境内。そこは今は、武田耕雲斎等の墓地とされ、史跡として整備されている。
↓気比の松原の一角に、松原神社がある。水戸天狗党員たちが祀られている。


 拝殿
 拝門と本殿
 石碑。碑面は解読できない(ボクには)
 ↓水戸烈士記念館

にしん肥料蔵の残酷
加賀藩の厚遇から浪士が幕府に引き渡されると処遇は一変する。浪士は海岸沿いの船町の「にしん肥料蔵」に拘禁される。肥料倉の数少ない小さな窓も板打ちされ、倉の中央に排泄用の桶が置かれた。それは、俄か作りの獄舎であった。5、60名づつ各倉にに押し込められた。木製の足枷を嵌められ、食事もにぎりめし一つと白湯のみであった。暗闇、悪臭、何よりも雪国の寒気、劣悪極まった拘禁だった。即ち「賊徒」としての拘禁である。中にはこの虐待に怒り、一戦交えて死するべきだったと後悔する者も少なくなかった。他方、劣悪な拘禁によって20名以上の病死者も続出した。 
 資料館となっていたが、今は閉鎖されている。

2019年4月3日水曜日

〇2017-4-15(土) 高野山天野の里、八幡神社と宝篋印塔

〇天野の里は、高野山北面の中腹にある。今はトンネルを潜ると奥山に突如開ける別世界のような盆地。ここに西行の妻子が暮らしたという。西行は北面の武士だったが(平清盛と同僚。名を佐藤義清(のりきよ)といった)若くして、京都に妻子を見捨てて出奔した。その後西行が高野山に出家していると聞いて、妻子はここ天野の里に庵を結んで暮らし生涯を終えた。西行はこの妻子の庵を度々訪れたという。
↓天野の里に、目を瞠る立派な社殿を有する八幡神社を発見






 ↓鎌倉時代の宝篋印塔を発見
 祠の右隣


2019年4月2日火曜日

〇2017-5-28(日) 和歌山県かつらぎ町「道の駅・紀の川万葉の里」「妹背山」「西行銅像」

〇道の駅・紀の川万葉の里に着いた。ここに来たのは7,8度目。
 紀ノ川を挟んで対岸の九度山方面を見る。山麓に、空海の母が籠った慈尊寺がある。
 ↓紀の川(手前が上流)を挟んで、左の小山が妹山、右の小山が背山。併せて「妹背山(いもせやま)」。万葉集に登場する頻度が第二位の歌枕だと、近くの宝莱山神社の宮司に教えて貰った。
 ↓背山

 道の駅から国道を西にしばらく行くと左折して紀美野町・海南市に至る県道に入る。それを少し行くと紀の川を渡る前に西行像が立っている。この像を拝むのは三度目。