2019年7月6日土曜日

★奥の細道紀行 第43章 白河関の森公園・芭蕉曾良銅像

〇第一回目の奥の細道紀行の旅は、2014-8月だった。この時は、白河の関跡に辿り着いてそれだけで満足して次の須賀川宿に向かった。ところが後で、関跡に隣接して「白河関の森公園」が整備され、そこに芭蕉と曾良の銅像が立っていたことを知った。残念無念と地団太を踏んだ。それで2017-5月に銅像に会うために白河市にやって来た。銅像の写真の掲載は、この連載では第41章となるところだったが、掲載でも飛ばされて次の訪問地を先にされてしまったので、今は第43章として挿入しておく。本当は第40章「歌枕・白河の関」に続くところ(後日このブログ「奥の細道紀行」の編集版を作るときに是正しよう)。
↓「白河関跡・白河関の森公園周辺案内図」左側に白河神社・白河関跡、右側に白河関の森公園
 ↓関の森公園に建つ芭蕉と曾良の銅像

 ↓台座に刻まれた句は
風流の初めや 奥の田植えうた 芭蕉》
『卯の花をかざしに 関の晴着かな 曾良』




↓ガイドマップ 右下隅に白河関跡・関の森公園、そのちょっとだけ西北方に庄司戻しの桜、そこから北北東にやや行くと関山満願寺。左下隅に境の明神

2019年7月5日金曜日

★奥の細道紀行 第42章「関山(せきさん)満願寺」。矢吹宿、泊

曾良随行日記』『(四月)廿一日 ‥‥。(旗宿の)町ヨリ西ノ方ニ住吉・玉 嶋ヲ一所ニ祝奉宮有。古ノ関ノ明神故ニ二所ノ関ノ名有ノ由、宿ノ主申ニ依テ参詣(白河神社・白河の関跡を参詣)。ソレヨリ戻リテ関山ヘ参詣行基菩薩ノ開基。聖武天皇ノ御願寺、正(聖)観音ノ由 。成就山満願寺ト云。旗ノ宿ヨリ峯迄一里半、麓ヨリ峯迄十八丁。山門有。本堂有。奥ニ弘法大師・行基菩薩堂有。山門ト本堂ノ間、別当ノ寺有。 真言宗也。‥‥コレヨリ白河ヘ壱里半余。‥‥‥。矢吹ヘ申ノ上尅(午後3時半頃)ニ着、宿カル。白河ヨリ四里。 ‥‥‥‥‥』
〇芭蕉と曾良は、午前中に旗宿の宿の主が白河の関跡だと教えてくれた関の明神・二所の関を訪れた。が、古関の跡は原野となり草木に埋もれてそれと分らない。それで白河への道は、標高619mもある関山(せきさん)山頂の満願寺を訪れてから白河の町に下ることにした。関山にこそ白河の関があったという説も称えられていたから。芭蕉は白河の関を探訪することを旅の眼目としていたので、探訪し損なって後悔することを懼れた。そこで念には念を入れて関山満願寺探訪ルートも旅程に加えたわけ。
●写真は、白河観光物産協会ホームぺージより引用
↓関山 標高619m
↓関山山頂「満願寺本堂」
今は堂宇は本堂しかない。山門も、別当寺も、大師堂も、行基堂も何もない。
〇関山には「白河の関」はなかったろう。芭蕉もそう感じ得心したことだろう。

★奥の細道紀行 第41章 白河市「庄司戻しの桜」

曾良随行日記』『(四月)廿日 一 ‥‥芦野・遊行柳。
一 ‥‥寄居村。‥‥
一 関明神、関東ノ方ニ一社、奥州ノ方ニ一社、間廿間計有。両方ノ門前ニ茶や(屋)有。 小坂也。これヨリ白坂ヘ十町程有(★註1)。古関(★註2)を尋て白坂ノ町ノ入口ヨリ右ヘ切レテ旗宿ヘ行。廿日之晩泊ル。暮前ヨリ小雨降ル(旗ノ宿ノハヅレニ庄司モドシト云テ、畑ノ中桜木有。判官(註:源義経)ヲ送リテ是ヨリモドリシ酒盛ノ跡也(★註3)。土中古土器有。寄()妙ニ拝(←「拝む」とメモしたのだから、旗宿の外れまで行って来たのは事実だろう)。)』
★註1 芦野、寄居、白坂と続く道は、今は国道294号線。芭蕉紀行時の奥州街道。
★註2 白河の関。旗宿は奥州街道から外れていた。今は県道76号線沿い。
★註3 「庄司戻しの桜」の伝承。
以下、写真・文は、白河市公式ホームページより引用
「伝承によれば、治承4年(1180)に源義経が兄頼朝の平家追討の挙兵を伝え聞いて平泉から鎌倉へと向かった際、信夫庄司の佐藤元治が、子の継信、忠信を義経に従わせ、この地まで見送り、この地から引き返したので「庄司戻し」といわれている。その時元治は、桜の杖を地面に挿して兄弟に義経への忠義を説き、その忠・不忠により杖が根付き、あるいは枯れるだろうと語ったという。その後、佐藤兄弟は二人とも奮闘の末に討死した。桜の杖はその忠節を感じて枝葉の繁る大樹となったと伝えられる。‥‥桜の木は天保年間(18301843)に野火で焼けたが、新芽を生じ植え継がれているという」
↑「桜の下に建つ「霊桜碑」の石碑は、明治44年(191110月に地元有志が佐藤兄弟の勇戦奮闘を賞讃して建立したものである」
↑右上に「庄司戻しの桜」があり、左下に「白河神社」「白河関の森公園」がある
〇奥の細道紀行を書き進め、白河の関の段に至って「庄司戻しの桜」の伝承地が旗宿上(かみ。下の地名もある)の外れに残っていることの重要性に気付いた。芭蕉が古関を尋ねた当時、関は野山の草木に埋もれてそれと識別することは出来なかった。当時、奥州街道は既に白坂道(現国道294号線)に移っていた。旗宿道は名もない古道になっていた(今は県道76号線)。しかし古道だが、かつての東山道・古代奥州街道であった可能性がある。それを示すのが「庄司戻しの桜」の伝承地の存在。佐藤庄司が平泉藤原氏の命を受けて、わざわざ飯坂温泉大鳥城から義経を送って来るのに古代奥州街道を堂々と通らずに来るだろうか。二人の愛息を義経に臣従させて送り出す別れの地を、古代奥州街道以外の田野道に求めるだろうか。この「庄司戻し」の伝承が信じられるとすれば、この伝承地の所在地こそ、古代奥州街道の道筋に当たっていることの証拠になる。芭蕉が果たしてここが白河の関の跡かどうか疑念を残しながら立ち去った関の明神の付近こそ、古代奥州街道沿いに立地した往年の白河の関跡だった。


2019年7月4日木曜日

★奥の細道紀行 第40章 歌枕《白河の関》

奥の細道》《心許(こころもと)なき日かず重なるまゝに、白川の関にかゝりて、旅心(たびごころ)定まりぬ。いかで都へ(★註1)と便り求めしも断(ことわり)也。中にも此の関は三関の一にして、風騒(ふうそう)の人、心をとゞむ(★註2)。秋風を耳に残し(★註3)、紅葉を俤(おもかげ)にして、青葉の梢(こずえ)(★註4)猶あはれ也。卯の花の白妙に、茨の花の咲きそひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠を正し、衣装を改めし事など、清輔(きよすけ)の筆にもとゞめ置かれしとぞ。
卯の花をかざしに関の晴着かな  曾良》
〇歌枕満載の名文。以下四首の和歌が書き込まれている。
1「たよりあらばいかで都へ告げやらむ今日白河の関は越えぬと 平兼盛」に拠る。
2「白河の関屋を月のもるかげは人の心をとむるなりけり 西行」に拠るか。
3「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞふく白河の関 能因法師」に拠る。
4「都にはまだ青葉にて見しかども紅葉散りしく白川の関 源頼政」に拠る。
曾良随行日記』『(四月)21日 霧雨降る、辰の上剋(午前7時半頃)止む。宿を出る。町より西の方(★註1)に住吉・玉嶋を一所に祝奉(いわいたてまつる)宮(★註2)有り。古の関の明神故に二所の関の名有るの由、宿の主申すに依りて参詣。それより戻りて関山へ参詣。‥‥』
★1 方位を定位すると「南の方」が正しい。曾良の勘違いか誤記
★2 白河神社の祭神は前章で明らかにした。それによると、祭神は四柱祀られており、そのうち二柱は「関の明神(境の明神)」とおなじく女神「衣通姫(そとおりひめ)」と、男神「中筒男命(なかつつおのみこと)」である。旗宿に「住吉・玉嶋を一所に祝奉宮有り」という記載は頷けるし、旗宿の主が白河神社について「古の関の明神故に二所の関の名有るの由」という記載も頷ける。白河の関が機能していた当時は未だ「白河神社」と呼ばれていなかったかも知れない。
  ↑古関蹟の碑 白河藩主松平定信(楽翁)が寛政12年(18008月、ここが白河関跡であることを断定し、建立した碑である。」
↓空堀跡

 ↓土塁跡 。空堀の土をかきあげて築いた。
 ↓関所内の平地
 ↓空堀跡



 ↓奥の細道・白河の関の段が書かれた碑。
 ↑奥の細道》《心許(もと)なき日かず重ぬるまゝに、‥‥‥以下省略》
 ↓従二位の杉。推定樹齢800年。
  ↓旗立の桜。源義経が平家追討のため平泉を立ったときこの神社で旗揃えをしたとき、ここに生えていた桜に源氏の旗を立てかけたと伝えられる。桜は代代わりしている。
 ↓幌掛けの楓。源義家が阿部貞任攻めのとき(前九年の役)、ここに生えていた楓に幌を掛けて休息したと伝えられている。


2019年7月3日水曜日

★奥の細道紀行 第39章 白河神社

↑「白河の関跡 白河関は、古くよりみちのくの関門として歴史にその名を刻み、また文学の世界では歌枕として数多くの古歌に詠まれた場所である。関の位置については久しく不明であったが、江戸時代後期、時の白河藩主松平定信の考証により、この地が白河関跡であると断定され、寛政12年(1800)に「古関蹟」の碑が建てられ、今日に至っている。関が置かれた年代については不明であるが、延暦18年(799)、承和2年(835)の太政官符には「白河」の名が認められることや歴史的な背景からみて、大化の改新以後の78世紀頃には存在していたものと考えられる。‥‥
↓「式内 白河神社」

↓「史跡 白河関跡」

 白河神社拝殿
 本殿


延喜式内社 白河神社
 祭神 白河国造命(シラカワクニノミヤツコノミコト)・天太玉命(アメノフトタマノミコト)・中筒男命(ナカツツオノミコト)・衣通姫命(ソトオリヒメノミコト)

古歌碑があるらしいので付近を当たってみたが見当たらなかった。これは新しい説明板。歌碑には「白河の関」に題材をとる平安時代の著名な和歌三首が刻まれていたそう。
便りあらばいかで都へ告げやらむ 今日白河の関は越えぬと》 平兼盛
都をば霞とともに立ちしかど 秋風ぞふく白河の関》 能因法師
秋風に草木の露をはらわせて 君が越ゆれば関守もなし》 梶原景季
能因法師の歌は余りにも有名。だが、一説によると法師は陸奥など行ってはおらず都で歌枕を空想して詠んだという。翌年まで家から一歩も外に出ず(陸奥を訪れて不在の筈)、また一年後にわざわざ日焼けして外に出たという(陸奥の旅で日焼けしていなければおかしい)。


2019年7月2日火曜日

★奥の細道紀行 第38章 二所の関址

〇栃木・福島県境白坂の「関の明神(境の明神)」の近くに「白河二所の関址碑」があった↓
  


  ↑「白河二所の関址 白河の関は古くから二所の関と呼ばれ□溝準平原の中を横断する奥州路はここで道を幾□にも選べるのである。白河楽翁により指定された今の旗宿道は其の一本である。然しこれより西側三□四□所を通っている白坂道は昔からよく利用され古の関蹟にみられる関の男女の明神社があり(男神=住吉社、女神=高嶋社)古関の体裁をもっともよく保ちながら白坂の関址は全く無視されて来た。余、多年関境の研究に没頭し江戸時代よりの関守の家である石井浩然(南部藩士で故あって南部藩の参勤交代路にあたる白河の関守となった石井七兵衛の子孫)と其の考証に當たり遂にその関屋跡を確認することが出来た。茲に白河二所の関址立証を機とし白坂道白河関址に記念碑を建立し永く白河二所の関の意を伝承せんとするものである」
〇白河の関跡を、国道294号線(旧奥州街道)の白坂「関の明神(境の明神)」の近くに比定する論者はなかなかいない。研究者の大概は、旗宿(はたじゅく)字関の森の白河神社に隣接する関の森公園を白河の関跡に比定する。論者の一部が、旗宿から白河市街に抜けていく道中に聳える関山(せきさん)の山頂に古関があった可能性を論ずるくらいである。芭蕉と曾良は、旗宿にあり・当時「二所の関」と呼ばれていた古関(今「白河の関」と呼ばれてほとんど疑義が生じない。国指定史蹟となっている)を先ず訪ね、それから念のため関山満願寺に登山して白河の町に下りている。関山は619mの標高がある。その山にわざわざ登頂したところを見ると、芭蕉は旗宿の古関を白河の関跡と断定しかねたのだろう。芭蕉が探訪した元禄2年(1689)当時、旗宿の古関(宿の主は「二所の関」と呼んだ)は全く整備されておらず草木の中に埋もれていた。白河藩主松平定信が旗宿の古関を「白河の関跡」と断ずる研究成果を公表し、関跡に「古関蹟の碑」を建立したのは1800年のこと。芭蕉にとって、白河の関跡を尋ねることは、奥の細道紀行の眼目・夢だった。後悔(探訪し損ない)は許されない。そこで芭蕉は念のため(ご苦労なことに)関山にも登って(二股かけて)悔いを残さず(疲れ果てたが)陸奥国に入った。

2019年7月1日月曜日

★奥の細道紀行 第37章 関の明神

『曾良随行日記』『一 芦野ヨリ一里半余過テ、ヨリ居(寄居)村有。是ヨリハタ()村ヘ行バ、町ハヅレヨリ右ヘ切ル也。 
一 関明神、関東ノ方ニ一社、奥州ノ方ニ一社、間廿間計有。両方ノ門前ニ茶や有。 小坂也。これヨリ白坂ヘ十町程有。古関(こかん)を尋て白坂ノ町ノ入口ヨリ右ヘ切レテ旗宿ヘ行。廿日之晩泊ル。‥‥‥』
栃木県那須町と福島県白河市の境界に来た。
こちらは那須町側
 境の明神がある。

玉津島神社

 ↑「境の明神 玉津島神社とよばれ、奥羽側の住吉神社と並立している。創立は古く、1053年に、紀州和歌浦の玉津島神社の分霊勧請と伝える。起源は峠神として生まれ、奥州街道が開かれると交通の発達とともに発展したが、明治に入り新国道や鉄道の開通によって衰退したものとみられる。ことに明治39年の火災により類焼し、昔日の面影を失ってしまったが、旧東山道沿いの「追分の明神」とともに、道中安全の神として古い歴史をしのばせる貴重な史跡である。」
 ↓福島県白河市側に入る。
 境神社

  ↓神門


↓玉津島明神は女神「衣通姫(そとおりひめ)」を祀り、住吉明神は男神「中筒男命(なかつつおのみこと)」を祀る。
 ↓拝殿
 ↓本殿
 ↓芭蕉句碑(多分)発見 
風流のはじめや奥の田うへ唄
と読めないこともない。