2010年12月17日金曜日

10/11(月)、奈良県宇陀市・宇太水分(うだみくまり)神社

宇太水分神社(うだみくまりじんじゃ)は、奈良県宇陀市にある神社。祭神は水を守る神。芳野(上社)・古市場(中社)、下井足(下社)の3社がある。古市場の由緒によると、創立は崇神天皇の時代で、大和の東西南北に祀られた水分のうち東に当たるのが中社とされる。探訪したのはこの古市場に鎮座する中社。
一の鳥居
二の鳥居
境内。正面は拝殿。左・拝殿、中央三棟・国宝・本殿、右・重文・春日神社&宗像神社
国宝・本殿三棟


重文・春日神社(左)と重文・宗像神社(右)

10/11(月)、奈良県東吉野村・丹生川上神社

丹生川の清流。
七滝八壷を目指してひた走っていたときにこの神社に遭遇。通り過ぎてから急ブレーキを踏んで取って返した。
拝殿
本殿

天武天皇により創祀されたらしい。古来「大和(おおやまと)神社」(天理市鎮座)の別宮とされてきた。祭神は、雨乞い止雨に霊験あらたかな雨師神。古代には朝廷から重んじられ賜った奉幣は枚挙に暇がなかった。「延喜式神名帳」では名神大社に列せられた。が、次第に衰微し、応仁の乱以降は遂にその所在すら不明になった。近世に至り神名帳の研究が盛んになると、先ず丹生川上神社下社が昔日の名神大社に比定されたが、明治になって丹生川上神社上社が名神大社に比定された。大正になりこの神社が往時の名神大社に比定され、調査結果もそれを
実証した。上社・下社に対して中社と呼ばれる。旧社格は、官幣大社。

2010年12月16日木曜日

10/11(月)、奈良県東吉野村・七滝八壷

熊野山中を走りながら大峯山寺に寄ろうと考えたが、これも道を間違えて果たせず、吉野村に南から近づいた。東西にある吉野路のうち東吉野路を選んだ。ここから宇陀路を辿り榛原・名張に出るつもり。道中「七滝八壷」の案内板を発見。名に魅せられて探訪してみることに。訪ね訊ねて行ってみるとそれは山深い谷奥。苦労した割に期待外れ、期待し過ぎた。
川を渡ると目の前にある第一段の滝。
どうやらこれが第二段の滝。
第二段の上段部
中段部
下段部
滝を七つ数えようとしたが、どうしても数が合わない。滝壺を八つ数えようとしたがどうにも足りない。どうやら数字は厳密なものではなくものの喩え。
日本の名滝を三つ挙げると、華厳の滝(日光)・那智の滝(熊野)・称名の滝(立山)。養老の滝はスケールが小さ過ぎる。称名の滝は以前はその全容が見れなかったらしいが、今は観光道が整備されて丸見え。

10/11(月)、熊野山中・七色ダム

新宮市から七里御浜沿いに熊野市に出、そこから熊野山中に分け入って吉野を目指した。国道を行くつもりが間違えて県道を辿った。奥山に入ると県道は未整備で里道と変わらず度々進路に迷った。漸く国道と合流する所にあったのがこの七色ダム。最初と最後の写真は案内看板から引用。


2010年12月15日水曜日

10/11(月)、熊野新宮・阿須加神社

神倉神社から新宮市街を走り《阿須加神社》にやってきた。「御灯祭り」の行列のルートは、熊野速玉大社に始まり、阿須加神社を経て神倉神社に至るということを知ったので探訪してみたくなった。
三輪山型の形の良い山を御神体としていることが明らか。

拝殿
本殿
この神社に着いたとき、吾輩の腹具合が急激に悪化して忍耐の極限を越した。このような小さい神社に公衆トイレがあろうなどとは思いもしなかった。万事休して観念したとき、旅の老夫婦が現れてその旦那が妻に「ちょっとトイレに行ってくる」と言った。よく見ると片隅にトイレがあった。地獄に仏とはこのこと。吾輩は神様の御加護に与った。この神社のことは死んでも忘れまい。
熊野川の畔に御神体の山が鎮座。山の向こう側に神社がある。ここは河口に近い。

2010年12月14日火曜日

10/11(月)、熊野新宮・神倉山(1)

《神倉神社》は熊野速玉大社の摂社。《天磐盾伝説》《御灯祭り》など由緒あり過ぎの古社。吾輩はこれまで何度か新宮を訪れこの神社を探索したが巡り合えず仕舞いだった。今度こそはと必死に探索したがまたも失敗かと思った頃には夕闇に包まれた。一縷の望みを捨てずに絶壁の裾を廻って行ったら、とうとう神倉神社の神橋に到達した。時に、宵闇に覆われ肝腎の石段を登ることが叶わなかったので、明朝再挑戦することにして七里御浜の道の駅で一泊した。
この鳥居を潜ると神社マニア垂涎の石段が始まる。伝源頼朝寄進・鎌倉積みの石段。この石段を《御灯祭り》の夜、山頂から数千人の「上がり子」が手に手に松明をかざして駆け下りて来る。その様はさながら下り龍だという。
以下、石段の急坂。




漸くなだらかになった、山頂の拝殿が近い。

10/11(月)熊野新宮・神倉山(2)

神域を囲う鳥居と瑞垣が見えてきた。
山頂の神倉神社の鳥居と瑞垣。この中に御灯祭りの夜、数千の松明を掲げた上がり子達がひしめく。神域はそれほど広くない。上がり子達の密集度は過酷で、松明の火と煙の充満は物凄く、今や遅しと荒れ狂う上がり子の大集団の堰が切られたときの勢いは神がかったものだろう。
巨大な岩盤。
拝殿と《ごとびき岩》
ごとびき岩
御灯祭りに備えて鍛錬していると思しき青年が走って登頂してきた。ごとびき岩に参拝してその裏に跳び上がって消えた、柏手の音がした。興味が湧いて見分してみると、この有様。女性の陰部との見立てだと直感。きっと生産の神を祀っている。
写真によく現れる御灯祭りの場面は、この鳥居に駆け下って来る場面。
絶壁の上に神倉神社がある。山頂の巨岩は《天磐盾》伝説をもっている。
御灯祭りの火の川の流れ。麓の鳥居まで駆け下って来たところ。