2013年3月25日月曜日

〇四国88札所霊場巡り、第79番・香川県坂出市「天皇寺(てんのうじ)」


金華山 高照院 天皇寺

天皇寺の歴史・由来

寺伝によると、天平年間に金山の中腹に、行基菩薩によって開創され、弘法大師によって荒廃した堂舎を再興されている。大師が弘仁年間(810〜24)にこの地方を訪ね、弥そ場という沢水が落ちる霊域にきた際、ひとりの天童が現れて閼伽井を汲み、大師にしたがい給仕をした。この天童は、金山を鎮守する金山権現であった。天童は、永くこの山の仏法を護るようにと誓って、持っていた宝珠を大師に預けた。大師はこの宝珠を嶺に埋めて仏法を守護し、その寺を摩尼珠院と号した。大師はまた、弥蘇場の霊域にあった霊木で本尊とする十一面観世音菩薩をはじめ、脇侍として阿弥陀如来、愛染明王の三尊像を彫造し、堂舎に安置した。この本尊の霊験が著しく、諸堂が甍をならべ、境内は僧坊を二十余宇も構えるほどであった。
保元元年(1156)7月、崇徳上皇(天皇在位1123〜41)は「保元の乱」に敗れ、京都・知足院に入られて落飾された。直後の同月23日、上皇は讃岐国に遷幸されるよう勅命があり、末寺の長命寺本堂を皇居と定められた。上皇は、阿弥陀如来への尊崇が深く守護仏とされていたが、長寛2年(1164)御寿46年で崩御された。二条天皇(在位1158〜65)は、上皇の霊を鎮めるため崇徳天皇社を造営、また、後嵯峨天皇(在位1242〜46)の宣旨により永世別当職に任じられ、現在の地に移転された。 明治新政府の神仏分離令により、摩尼珠院は廃寺とされたが、天皇社は白峰宮となって初代神官には摩尼珠院主が赴任した。明治20年、筆頭末寺の高照院が当地に移り、金華山高照院天皇寺として今日にいたっている。
天皇寺の見どころ 
三輪鳥居  天皇寺の正面にある。普通の明神鳥居の左右にやや小さい脇鳥居を組み合わせた珍しい鳥居で、奈良・大神神社など全国で3ヶ所にしかない。この横には源頼朝寄進の下乗石、上段には崇徳天皇社が配置されている。
大師堂
本堂
手前・大師堂、向こう・本堂
観音堂、だろう

左・白峯宮、右・天皇寺
白峯宮・三つの鳥居。
崇徳上皇の御霊が祀られている。
本殿境内へ
拝殿
奥・本殿、手前・拝殿
左・拝殿、右・本殿
神木

〇白鷺が奇蹟的に獲物を捕まえた。

白鷺が獲物を捕まえた。この瞬間は失敗したんだか、振り返りざま真後ろに嘴を突っ込んで見事に捉えた。小さい魚だったが、首を上げて魚の位置を調整して呑み込んだ。ボクが何故この場面を取り上げたのかというと、僕が国分町に越してきて以来20年の間に毎日鷺の狩猟を観察してきたが魚をとらえるのに成功した場面はこの時をいれてたった二回だから。もう一回は20年前。20年前は宵闇の川の中に鷺が立ちつくして川面を睨んでいたので興味を引かれて橋の上から眺めていた。その時鷺は暗闇の中で見事に魚を捉えて首尾よく呑み込んだ。鳥は鳥目で夜目が効かないというのは嘘だ。とにかく狩猟の成功率が低すぎる。ボクは鷺たちが生き延びているのが不思議でならない。

〇この週末、ブログ更新を失念していた。その訳は。

自己診断によると、膀胱炎にかかっていた。頻尿、それも切迫した尿意。いざ便器に坐ると全然排尿せず痛い。痛みを緩和するためにはやわやわと細切れにして出すしかない。出る尿の総量は微々たるもの。それで排尿感は消失する。水分を多めに取るように努めたが、出る量は微々たるもので変わらない。摂取した水分は何処へ行ったのか。体内に溜っているに違いない。水膨れ状態か。今日は月曜日。正午まで寝床でウトウトと過ごした。階下から女房の声が聞こえていた。「お医者さんに診てもらって来なければ」。ボクは医者嫌いなので結局出かけなかった。今はあの頻尿感はない。膀胱炎は収まったんだろうか。エストで昼飯を摂っていたら、尿道菅結石・前立腺肥大など色々な意見が出て、結論は医者に早く診て貰えだったが、ボクは医者にかからないだろう。頻尿が収まればもういいや。

2013年3月22日金曜日

〇四国88札所霊場巡り、第78番・香川県綾歌郡宇多津町「郷照寺(ごうしょうじ)」

郷照寺の歴史・由来

境内からは瀬戸内海にかかる瀬戸大橋の眺望が見事である。往時から港町として栄え、「四国の正面玄関」とでもいえる場所なので、高僧・名僧との由縁が深い霊場である。地元では「厄除うたづ大師」と呼ばれ、また、四国霊場で唯一「時宗」の霊場である。縁起によると、郷照寺は神亀2年、行基菩薩によって開創された。行基菩薩は55センチほどの阿弥陀如来像を彫造し、本尊として安置され、「仏光山・道場寺」と称した。御詠歌に「道場寺」と詠まれているのもその名残である。その後、大同2年(807)に弘法大師が訪れ、仏法有縁の地であると感得し、大師自身の像を彫造して厄除けの誓願をされた。この木造の大師像は「厄除うたづ大師」としていまも広く信仰されている。
京都・醍醐寺の開山として知られる理源大師(聖宝・832〜909)がこの寺に籠山し修行したのは仁寿年間(851〜54)とされ、また、浄土教の理論的基礎を築いた恵心僧都(源信・942〜1017)が霊告を受けて釈迦如来の絵を奉納し、釈迦堂を建立したのは寛和年間(985〜87)とされている。さらに、仁治4年(1243)には『南海流浪記』の著者である高野山の道範阿闇梨が流罪となったとき、この寺を仮寓にした。「時宗」の開祖・一遍上人(1239〜89)は、正応元年(1288)に3ヵ月ほど逗留して踊り念仏の道場を開くなど、真言・念仏の2教の法門が伝わることになり、八十八ヶ所の中で特異な霊場となる。なお、道場寺を「郷照寺」と改めたのは、寛文4年(1664)のことである。
〇時宗。本尊は阿弥陀如来。


左・本堂、右・庚申堂。本堂の左背後に大師堂が見える。
本堂と背後の大師堂。
庚申堂。本堂の右側。
本堂。本尊は阿弥陀如来。
本堂左横の石段を昇ると大師堂。
大師堂
大師堂・左側面。
万体観音洞・入口。洞内は暗くてよく見えない。
大師堂の岡から、本堂を望む。
常盤明神
淡島明神
明神の岡から、大師堂を望む。
本坊の庭園。

2013年3月21日木曜日

〇「流浪の画家・旅ブログ」第1巻を印刷し製本した。


「流浪の画家」の旅ブログのデータ量が膨大化してきたら、いつかサーバーからある日突然古いものから順に消されるのじゃないかと心配になってきたので、このあたりでワード文書化を図った。これが大変な作業量を要し、目下一年間分ほど編集作業を終えたところだが、既に1,500Pになんなんとしている。誠に恐れ入る。流浪の旅に、とてつもないエネルギーと時間を費やしてきたことに対して。各巻、両面印刷の約300Pで構成される。


〇四国88札所霊場巡り、第77番・香川県仲多度郡多度津町「道隆寺(どうりゅうじ)」

道隆寺の歴史・由来



仁王門をくぐると、ブロンズの観音さんがずらりと並んで迎えてくれる。創建ころのこの付近一帯は広大な桑園で、絹の生産地であったようである。縁起によると、和銅5年、この地方の領主、和気道隆公が桑の大木を切り、小さな薬師如来像を彫造し、草堂を建てたのが寺の初めといわれる。道隆公は、周囲5メートル近い桑の大木が、夜ごと妖しい光を放っているのを見た。この光を怪しみ矢を射ると、女の悲鳴があり、乳母が倒れて死んでいた。嘆き悲しんだ道隆公は、その桑の木で仏像を彫り、草堂に安置して供養すると、不思議にも乳母は生き返ったという。
大同2年(807)、道隆公の子・朝祐公は唐から帰朝した弘法大師に懇願し、90ンチほどの薬師如来像を彫造、その胎内に父・道隆公の像を納めて本尊とした。
朝祐公は大師から授戒をうけて第2世住職となり、先祖伝来の財産を寺の造営にあてて七堂伽藍を建立、寺名は創建した父の名から「道隆寺」と号した。第3世は弘法大師の実弟にあたる真雅僧正(法光大師)が嗣ついで二十三坊を建立し、第四世の円珍(智証大師)は五大明王、聖観世音菩薩像を彫造して護摩堂を建立、次の第5世聖宝(理源大師)の代には「宝祚祈願所」となっている。高僧が相次いで寺勢は栄えたが、貞元年間(976〜78)の大地震による堂塔の倒壊や、康平3年(1060)の兵火、また「天正の兵火」に遭うなど興亡をくり返しながらも、法灯を守り続けている。
〇真言宗醍醐派。本尊は薬師如来。
↓ 仁王門


 仁王門から真っ直ぐ正面に本堂。右手前は大師堂。
 左・大師堂と右・鐘楼
 本堂。本尊は薬師如来。
 多宝塔

 大師堂・左側面。
 大師堂・正面。
 本堂・右側面。

大師堂、左端・本堂。立ち並んでいるのは観音像。
本堂の左側を行く。観音像が立ち並んでいる
本堂横に立ち並ぶ観音像
 本堂裏の観音像群。
 中心に立つ観音像。この角度から見ると形が好い。背後の電信柱が邪魔(`´)
 多宝塔と大師堂
 以下、妙見宮
 拝殿
 拝殿・側面と本殿
 中心の観音像の後姿も形が好い。
 北門・裏門
 「お遍路さん専用駐車場」に置いてある白いパンは何か。
 「風の強い日・雨の日」にお遍路さんが非難する場所だそうです。