2017年4月27日木曜日

〇3-26(日)大津市「小野神社飛地境内社・道風神社」重文・小野道風神社本殿

〇堅田からさらに北上。小野神社飛地境内社小野道風神社を探す。以前、小野神社は探し当てたが、飛地境内社小野道風神社は見つからなかった。雪辱戦。それがあっさり見つかった。


 ↓重文・本殿。祭神は小野道風、学問・書道の神
 「道風社」の掲額
〇切妻造・平入。暦応4年(1341)建立


 ↓近くに小野神社(小野一族の祖を祀る)、小野妹子神社、小野篁(たかむら)神社がある。ここは、小野神社の飛地境内社。小野一族には外に伝説の美人・小野小町がいる。

2017年4月26日水曜日

〇3-26(日)大津市「神田神社」重文本殿

〇神田神社は湖西・比叡の辻からさらに北上を続け堅田の近くにある。
↓池があり公園となっている。池の向こうの小山の裾に神田神社が鎮座する。
 ↓池で水鳥が泳いでいる

 ↓鳥居を潜って進むといきなり剥き出しで重文本殿が現れる。拝殿も瑞垣もない。
 ↓「‥‥当本殿は、整った側面の屋根がとくに美しい。棟札によって南北朝時代の建徳元年(1370)の建立であることがわかる」




〇素朴だが、格調が高い。年代も古く、一級の重文本殿。

2017年4月25日火曜日

〇3-26(日)大津市「聖衆来迎寺(しょうじゅうらいこうじ)」重文4棟

〇聖衆来迎寺は湖西をずっと北上し、比叡山に向かうために左折する比叡の辻がある辺りにある。何とこの寺には重文建物が4棟も残っている。天台宗なので、信長の比叡山焼打ちの時に共に焼尽に帰すべきところだったが、不思議と焼かれなかった。その謎を解く鍵も境内にある。
↓重文表門が見える
 ↓「天台宗紫雲山・聖衆来迎寺」
 ↓重文・表門

 ↓重文・本堂


 ↓重文・客殿
 〇江戸時代初期の代表的な客殿で寛永16年(1639)の建築と伝わる。




 ↓重文・開山堂




 ↑↓「宇佐山城主・森可成公之墓(蘭丸の父)」。比叡山焼打ちの時、信長に焼かれなかった理由がこの墓に見出せる。森可成は、信長が勢力を伸張させる過程で率先勇戦して討死にした功臣だった。信長はその息子兄弟を愛して側近の小姓にした。
 ↓森可成の墓の左に小神社がある。
 ↓右・本堂、左・客殿
 ↓左から開山堂、客殿、本堂
 ↓庫裡と式台(玄関)

2017年4月24日月曜日

〇今週末にもう春の連休に入る。旅の計画が未だ立っていない。東に行くか、西に行くか、それすら決定していない。遺憾

〇江戸深川に芭蕉を記念する施設が四つある。
①芭蕉庵跡とされる芭蕉稲荷神社
②その近くの芭蕉庵史跡展望庭園(③の別館)
③そのやや近くの江東区芭蕉記念館
④奥の細道出発地点となった仮寓「採茶庵(さいとあん)
この内、④だけが未探訪。①~③は探訪済みだが遺憾なことに②③の写真が失われた。④は、芭蕉が小舟に乗って隅田川に漕ぎ出し、門人・友人が打ち揃って見送ることになっていた千住宿を目指したという文字通り奥の細道の振出しなのだから未発見未探訪では済まされない。こういう事情でボクとしては奥の細道紀行の旅を首尾完成させるために江戸深川を起点にして紀行をもう一度やり直したいという心情があるのは事実。その他、旅の途中の随所にどうしても探訪しなければならない場所や事績が取り残されているのを痛感する。それらを補充してボクなりの奥の細道紀行の最終稿を編集して本を完成させたいという願望がある。それでこの週末には江戸深川を起点とした旅に出る可能性が高い。

〇3-26(日)大津市「篠津(しのづ)神社」重文表門

篠津神社も旧市街地にある
 ↓「重文・篠津神社表門 この表門は、旧膳所城の北大手門として建てられたもので、明治3年(1870)の膳所城取り壊しの際に篠津神社に移され、翌々年に建て直されたものです。門は高麗門形式で屋根は本瓦葺となっており、旧膳所城主本多氏の立葵紋がみられます。扉は内開きで、竪格子、腰部横板張りとなっており、脇門を付けています。この高麗門という形式は、背面に特色があり、正面の主体部から両方に袖のように直角に屋根が出ているものをいい、この形式は城門に数多く用いられています。この門も桃山時代の城門の一つで‥‥」
 ↓重文・表門。参道から見る
 ↓内側境内から見る。高麗門の特色は、門の背面に両袖のように直角に屋根が出ているのだが、その特色がよく出ている。


 ↓拝殿
 ↓拝門
 ↓拝門・瑞垣、本殿
 ↓本殿と幣殿