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〇ずっと昔のこと、女房子供と旅に出て「海野宿」訪れたことがあった。妙に印象に残っている宿場町だったが、それがどの辺りにあった町なのかずっとはっきりしなかった。ボクのおぼろな記憶では、諏訪湖から和田峠を越えて下りた街道筋にあったように思っていた。今回和田峠を下ってみて「海野宿」はこの辺りの中山道筋にはなかったことが判明。見当が付かなくなって地図で調べると東御市の市役所近くにあることが分かった。上田盆地の南端と言ってもいい辺り。旧北国街道筋にある。
↓海野宿の入口に「白鳥神社」がある。海野氏・真田氏の崇敬社
拝殿
御神木の欅
欅の巨木が境内に5,6本ある。
本殿
〇海野宿はとにかく宿場町の面影が色濃くしかも街並が今も立派。
街道の中央に水路が通されている
↓一民家が「海野宿歴史民俗資料館」として開放されていた。入館料200円。
海野宿は江戸時代は北国街道の要衝にあり、北陸方面の諸大名の参勤交代の宿泊駅ともなり繁栄した。明治時代になると養蚕業に転じて成功し繁栄を維持した。
↓民家の奥は想定外に長く敷地が延びていて養蚕の施設が建てられていた。
奥の建物の一室。養蚕業の名残が保存されている
↓立派な家が幾つもある。ウダツが上がり、気抜き(小屋根)が屋根に載せられている
↓出格子(でごうし)が海野宿の特色だそう
↓馬の塩舐め石
↓奥に立派な庭園のある家が幾つもある
本庶 佑は、日本の医師、医学者。勲等は文化勲章。学位は医学博士。京都大学名誉教授・高等研究院副研究院長・特別教授、公益財団法人神戸医療産業都市推進機構理事長、ふじのくに地域医療支援センター理事長、静岡県公立大学法人顧問、お茶の水女子大学学長特別招聘教授、日本学士院会員、文化功労者。 ウィキペディア
生年月日: 1942年1月27日 (年齢 76歳)
〇和田峠を下って和田宿、長窪宿と辿って来ると芦田宿に入る手前に笠取峠がありその峠道に藩主が植えた松並木があった。その松並木は今もわずかだが面影を残している。
↓道の駅「女神の里・たてしな」で早朝起床。昨夕ちらりと発見した「笠取峠・松並木」の案内の所まで戻ってみることに。長野県立科町の水田は10月に入ったというのに今も朝日に黄金色に輝いている。早場米地帯の北陸では考えられない光景。
↓笠取峠のマツ並木
↓広重の中山道69次の絵の江戸日本橋より27宿「芦田」の図。松並木が描かれているそう。ボクには杉並木に見えるんだが。
↓芦田宿から和田峠寄りの「長窪宿」。次に「和田宿」がある。
↓芦田宿から軽井沢方面に一つ行くと「望月宿」がある。そう言えば望月町まで絵を何回か描きに来たことがある。ずいぶん遠くまで足を延ばしていたもの。
旧中山道に沿って国道が通じている。
↓松並木を辿ると今の国道に出る。
↓国道を跨いである細道が旧中山道の片割れだとボクは推測する。
↓松並木を戻る。
〇下諏訪町から諏訪市に移動して「諏訪大社下社秋宮」に行く。町から市に行ったが実は近い。↓到着は午後4時半。
↓宝物殿
〇神楽殿・重文
〇幣拝殿(楼門)・重文
幣拝殿は左右に「片拝殿」を伴っている。左右片拝殿も重文らしい。右端に「御柱(おんばしら)」が見える
〇秋宮一の御柱
〇本殿屋根
↓格子越しに本殿が見える
↓片拝殿
夕暮れ近い諏訪湖。諏訪市
↓和田峠に向かっていると、何と「気落し坂」に遭遇。
↓坂のてっぺんに搬送中の御柱に見立てた大木が顔を覗かせている。
↓さらに進むと「水戸浪士の墓」の表示があった。水戸藩脱藩天狗党が中山道伝いに京都に行く道中で幕命により和田峠で迎え討った近隣諸藩軍と一戦に及んだ事績がある。
「中山道一里塚」の標識があった。この道は旧中山道に相違ない。
〇今は「新和田とんねる」が和田峠の下を一直線に貫いている。普通車620円と料金が超高い。その手前で左折して旧道のクネクネ坂を登り和田峠を目指す。
とにかくクネクネしている。雨も降り出した。ようやくのことに峠と思しき地点に着いた。トンネルがあり、それが一車線で信号式交互通行。今はバイパストンネルで通行がはけてこの峠道はボクのような変わり者しか利用しないので渋滞の惧れはないが、一昔前は厄介な峠道だったろう。ボクの推測ではこのトンネルの真上辺りを旧々和田峠道が通っていた。
↓トンネルを潜ってしばらく行くと登りも降りも「中山道」の標識が立っていた。
↓近くに客足が遠のいて廃屋となったドライブインがあり、その駐車場に「和田峠」の案内看板が立てられていた。この峠、その昔家族旅行で越えたことがある。
↓立科町に下り、ナビに載っていない道の駅を発見したので入って泊った。「女神の里・たてしな」。女神の里というのは立科町に女神湖があるからではないか。