2012年3月29日木曜日

〇紀ノ川高野山口「天野の里」、西行法師の妻子の悲話。

丹生都比売神社から天野の里を走り回り、念願の西行の妻と娘の遺跡を巡礼することに。
↓「西行妻娘宝キョウ印塔」の案内標示発見。
村の中の丘の上を行くとさらに案内が。

とうとう到達。

「二基の宝キョウ印塔は、西行の妻と娘を供養した碑で、和歌山県の文化財に指定されています。向かって右より二基は、1372年建立され、左二基は1449年に建立されました。後方の数多くの五輪は、曽我兄弟の郎党、鬼王・団三郎を供養した碑です。二人の郎党は、主人の遺骨を高野山に納めた後、天野のこの地で生涯を終えたと伝えられています」
↓伝・西行の妻と娘の宝キョウ印塔
↓伝・曽我兄弟の郎党、鬼王・団三郎の墓
↓宝キョウ印塔から数百m行くと丘の上に「西行堂」がある。
↓西行堂

↓西行堂の脇に西行の妻・娘の墓と伝えられる小さな墓碑がある。
「西行が出家してまもなく(吾輩註・西行の出家は23歳頃)、妻も尼となり1142年ここに庵を結び読経三昧の生活を送っていました。娘も出家の志があって、京都より15歳ばかりにて高野山の麓の天野と聞いただけの一人旅。やっと天野にたどり着き、母娘二人で仏門に入り、生涯を終えたのでした。娘の亡くなったのは1199年秋彼岸と言われています」。西行の俗名は「佐藤教清(のりきよ)」、御所の北面の武士だった。23歳頃思うところがあり妻子を捨てて出家した。2、3年間京・嵯峨野辺りに庵を結んだ後旅立ち、30代は高野山で仏道修行をした。40代になり全国を旅するようになった。妻と娘が天野の里に庵を結んだのは、西行が高野山で修業中のこと。高野山は女人禁制だったので精々近づけても天野の里までだった。西行は、妻子が天野の里に暮らしていることを知っていたらしい。妻子の庵を訪れたという説もある。確かなことは、西行の実家・佐藤氏は紀ノ川沿いに荘園を持つ有力な豪族であった。西行の放浪・修行生活は実家の経済的支援があればこそ成り立ったであろうし、妻子も庵を維持できたのはそこが佐藤氏の地盤に近い天野の里だったことがあろう。
↓西行堂の脇にある伝・西行の妻娘の墓。
西行堂の真下にその堂守然とした家がある。その家業は酒店。
↓その家の名は何と「佐藤」。佐藤姓は多いとはいえ、これは偶然の一致だろうか。
次は「院の墓」。これは西行と無縁に見えて実は深層で繋がっている。

「院の墓と伝えられているが、鳥羽天皇の皇后の待賢門院の墓でなく、院に仕えた中納言の局の墓と考えられます。「山家集」(西行の歌集)には、中納言の局が 待賢門院 の喪に服した後、京都の小倉の住まいを捨て、天野に移り住んだと記されており、1149年の頃と推定されます。この地に庵を結び、入寂した後、里人が葬ったのがこの墓です。ここのすぐ下に西行堂があり、西行と関係の深かった中納言の局が、高野山への道、八町坂に面したここに住まいを持ったのも当然と言えます」。西行は女騒がせな男だったことは確か。今で言えばモテた。
↓天野の村社・八幡神社。


村社のこの華麗・豪勢さには目を瞠らされる。
↓伝・横笛の塚もある。

「平家に仕えた名門武士、斉藤時頼(滝口入道)が雑仕横笛と恋に落ちたが、叶わぬ恋と悟って時頼は出家し、嵯峨の往生院に入った。後に高野山で多聞坊浄阿と称し、仏門修行の毎日を送りました。横笛も後を追い、奈良の法華寺で生涯を終えたとか、桂川に身を投げたなどの諸説があるが、1179年高野山に入った時頼のあとを慕い、ここに庵を結び、恋しい人にあうこともなく、19歳ではかなくなったと伝えられています」
↓「貧女の一燈お照の墓」

「高野山の奥の院に、千年近くの間光り輝いている貧女の一燈と言われる燈籠があります。お照という少女が、自分の髪を売った金で養父母の菩提を弔うために献じた一燈です。お照はその後、ここに庵を結び養父母の菩提を弔いつつ生涯を終えたと伝えられています」
↓「六本杉」は「二つ鳥居」と同じく「高野山町石道(ちょういしみち)」(高野山に参る表参道)から外れて天野・丹生都比売神社に参詣する分れ道にある。その昔、町石道の分岐点の峠に六本杉が生えていて旅人の目印になっていたらしい。
↓天野の里・丹生都比売神社から町石道・高野山表参道の六本杉峠に至る古道。

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