「吉水神社」は全然神社らしくない。それもそのはず、白鳳年間に役の行者が創立したと伝える吉野修験宗の古い僧坊だった。吉水院と称した。それが明治維新時の神仏分離・廃仏毀釈の嵐の中で神社となって存続することになった。祭神は後醍醐天皇で、外に楠正行(まさつら)等二柱の神を合祀している。
↓吉野山の本道から小谷を渡った小山の上にある。
↓太閤秀吉が吉野の花見の大興行を打ったとき、吉水院の境内が本陣となったそう。
↓金峯山寺・蔵王堂の屋根が見える。
↓左が重文・書院で後醍醐天皇の行在所となった。右は「勝手神社」の仮宮。
↓書院
↓書院内部。静御前の着物が展示してある。この部屋が、義経が潜んでいた所だそう。
↓弁慶思案の間。義経潜居の間の控え。
↓「南朝皇居」の掲額
後醍醐天皇・玉座の間
↓源義経の鎧だそう。
↓「勝手神社」仮宮。御神体が仮遷座されている。元の勝手神社復興のための勧進がなされている。
↓ここが本来の勝手神社。立入禁止とされている。不審火により神殿が焼失したそう。伝説ではこの神前で、大海皇子(おおあまのみこ、天武天皇)が琴を奏でたところ背後の袖振山に天女が現れその袖を振るという吉瑞があり、また静御前が荒ぶる法師どもに捉まり進退窮まったとき法楽の舞いを舞ったところさしもの荒法師どもも鎮まったという。吉野山の入口にあるので式内社「山口神社」に比定する説が有力。
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