如意輪寺は延喜年間(901~923)に日蔵上人によって真言宗寺院として創建されたと伝えられている。後醍醐天皇が吉野に南朝の拠点を置いたとき、如意輪寺を勅願所と定めた。そして志を遂げぬまま吉野で崩御されたとき如意輪寺の裏山・塔尾陵に葬られた。室町期以降衰退し本堂も失った。江戸時代初期に再興されたが、その際浄土宗に改宗した。↓山門
↓本堂。本尊は如意輪観音菩薩。
不動堂
多宝塔
宝物館にある蔵王権現像・重文、木造・鎌倉時代。
宝物館には、楠正行(まさつら、正成の長男)が辞世の歌を鏃で彫りつけた扉も保存されている。北朝軍との圧倒的劣勢の戦い・四条畷の戦いに出陣するにあたって、正行は後醍醐天皇陵に参り「かえらじとかねておもえば梓弓 なき数に入る名をぞとどむる」と本堂の扉に刻み付けたという。
↓ 如意輪寺裏山にある後醍醐天皇・塔尾陵。
この後醍醐天皇陵は北面して造営されている。御陵はどれも南面して造られるそう。この御陵だけが北面し京都を睨んでいるのは、南北朝時代、足利尊氏・北朝に占拠されている京都御所への還御を夢見てそれが怨念となっていた後醍醐天皇の遺詔に基づく。
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