入江泰吉・撮影
小川光三・撮影
入江泰吉・撮影
小川光三・撮影
小川光三・撮影
小川光三・撮影
入江泰吉・撮影
入江泰吉・撮影
土門拳・撮影
辻本米三郎・撮影
↓ 入江泰吉・撮影
確かに光背は、後頭部に金具で直接取り付けられているように見える。
辻本米三郎・撮影
辻本米三郎・撮影
以下2枚の写真を見ると歴然としている。
辻本米三郎・撮影
↓辻本米三郎・撮影
後頭部中央に取付用の穴が穿たれている。
小川一真・撮影
識者の解説の中には、頭部に光背を直接取り付ける作例は飛鳥時代にあり、そのことが《救世観音像》が飛鳥仏であることを証明しているとするものがある。しかし、飛鳥時代の作例は具体的に指摘されていない。《救世観音》と思しき仏像のことが古記録に登場する最初が、761年(天平宝字5年)にできた「東院資材帳」に載っている次の記事。「上宮王等身観世音菩薩木像」とあり、下に小さな字で「金箔押し」と書かれている。明治政府から与えられた調査権限を盾にとって法隆寺に談判して当時秘仏化していた《救世観音》の厨子を開かせたのがフェノロサだが、彼は、この観音像を指して朝鮮美術の最高傑作に数えている。しかし、肝腎の朝鮮半島に《救世観音》に比肩し得る仏像の傑作が残っていないのだから、この説は説得力に乏しい。《救世観音》の出自・来歴は謎に包まれたまま。《百済観音》の出自・来歴も謎だらけだった。法隆寺は奥深い。従姉の〇重ちゃんの疑問に戻ると、確かに異様な光背の取り付け方である。後頭部の真ん中に弾丸を撃ち込んだような穴をあけて取り付けるなど、丹精込めて仏像を制作した仏師のすることではない。そこで仮説だが、梅原猛の・法隆寺が聖徳太子の怨霊鎮魂のために建てられたという説を土台にすると、太子の等身大像だという説のある《救世観音像》の脳天に釘を刺して怨霊の跳梁を抑え込んであるという穿った説が出てこないとも限らない。が、このような説は、当の梅原猛さえも容認しないだろう。もっともらしい仮説は、今ある光背は後世に取り付けられたというもの(当初光背はあったのか、どういう光背だったのかは不明という立場)。ボクはこう考えるしかなかろうという意見。《救世観音像》の現存の光背の取り付けは、正面からしか見られないことを前提にした後世の仏師の安直な仕事ではないか。論者の中には、正面から見たこの像の顔・人相の醜さと側面から見たときの高貴さの懸絶を論じて、《救世観音像》は側面から見られることを前提に作像されているとの論をなす者もあるが、《救世観音》の側面像は側面からの正視に耐えられるように造形されていない。正面視によって与えられる圧倒的な迫力・神秘性がない。とにかく不思議な仏像であることにおいては、《救世観音》は《百済観音》と好い勝負。
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