2012年6月25日月曜日

〇関ヶ原古戦場・石田三成本陣「笹尾山」

中央のこんもりした低い山が「笹尾山」。関ヶ原合戦の時の石田三成本陣。
山麓に番兵が立っている。以前来たときは居なかった。町興しボランティアの一環?気合を入れて立っていた。この兵士に質問した、「関ヶ原町の人は、東軍・西軍どちらの贔屓(ひいき)が多いんですか」。この人は迷いなく答えた、「西軍の方でしょうね」
女兵まで居たので、ポーズをとってもらった。訳の分らんポーズ。写真では若そうに見えるが、老兵達だった。若い娘達は格好悪過ぎて嫌がるんだろう。

馬防柵

登り口

山頂近し。低い山なので直ぐ。

「史跡・関ヶ原古戦場・石田三成陣地」

山頂からの眺望。左方・手前の山が「南宮山(なんぐうさん)」。この山上に西軍の吉川・毛利の大軍3万が陣を構えた。構えて、終始動かなかった。家康が関が原に進出して最初に本陣を敷いたのが、この山の右端に出っ張りのように見える小山、桃配山(ももくばりやま)という。背後を吉川・毛利の大軍に襲われればそれで一巻の終わりなのに敢えてリスクを取って見せた。吉川・毛利との間には彼らが中立を守るという密約が出来ていた。その密約の固さを家康は叩いてみたという訳。右側・遠景の山塊は養老山系。

左方遠景の山が養老山塊。右側手前に展開する山は何重にもなっているが、一番手前の小高い山が「松尾山」。西軍・小早川秀秋軍1万5000が陣取った。そして裏切って西軍の側面を衝き、東軍の圧勝を招いた。松尾山のさらに手前、笹尾山との間に樹影の濃い森があるが、この辺りに西軍の島津・宇喜多・小西軍が、さらに松尾山近くに大谷軍などが陣取っていた。笹尾山に一番近かった島津義弘軍1,000は徹頭徹尾動かなかった。家康も島津軍への手出しを控えた。三成は出撃を督促したが、応じなかった。島津軍が動き始めたのは、西軍の敗北が確実になったその時から。戦場から離脱するため、真正面の家康本陣に向けて突進を敢行した。家康は陣を開き、その中を抜けて島津軍は伊勢街道を目指して落ちて行った。養老山塊と南宮山(↓写真の左はじにごく一部が写っている)との間を縫って伊勢街道に通じる道が通っている。島津軍はその道を辿った。
関ヶ原古戦場を見るとき大事なのは、吉川・毛利軍3万が陣取って動かなかった南宮山と小早川軍1万5,000が陣取って裏切った松尾山を、正確に現地の山々で比定すること。ボクはこれだろうと推定はしていたが、それを断定してくれたのは、最初に登場した・まじめに気合を入れて任務を果たしていた地元のオッサン兵士。南宮山と松尾山を比定できたうえで関ヶ原古戦場を眺めると、この盆地は意外と狭いと感ずる。南宮山と松尾山の西軍が本当に敵対するものなら、この戦場は東軍にとって死地であった。そうなら家康はこの盆地の中に決して進出しない。家康は、南宮山と松尾山の敵が敵でないことを知っていた。戦うべき相手が、関が原盆地内の一隅に陣取る敵のみであることを知っていた。家康は戦略上勝ち切ったうえで、関が原の戦場に入ったのである。

4 件のコメント:

  1. pacificvenusさん、膝、壊れてたのどうなりましたか。直ってれば好いんだけど。"港町ブルース"の旅にいよいよアグレッシブに出かけるために大事なことだと思うんで。

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  2. 報告が遅れてすみませ~ん m(*- -*)m
    じゃ~ん!小型船舶操縦士二級取ってきました v(^o^) 私の実技試験終わってから、若い教官!が「良かったですね、免許取ったらこんな波で出ないですよ」w(゚o゚)w
    ハードスケジュール+雑用勃発+つけっぱなしパソコンが火吹きそうなくらい熱い、ので、シャットダウン ヘ(;´o`)ヘ
    PCも私もオーバーヒート気味 (^^; 膝ちょっと痛いです。から、無理!しないですすみます (。・_・。)ノ

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  3. pacificvenusさんって、超多忙な人なんだなぁ。なのにボクのブログに付き合ってくれてアリガトウm(__)m膝は十分いたわって進んで下さい。膝を庇って無理をすると全身に歪みが生じ、思わぬ不都合を招くリスクが大きいと思います。それにしても小型船舶操縦士二級取ってきちゃったんですか。速攻ですね。留まることを知りませんねぇf(~_~;)いよいよ"港町ブルース"の世界に入りますね(・_・;)

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  4. うふふっ (o^-^o) 小型特殊(水上バイク)もセットで申し込んであるんですが、まだいつどこで取ることになるのか、日程の調整中だそうで、まさに主役!になってるみたいで (o^ O^)シ彡☆  私どうなっちゃったんでしょう?

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