2012年10月18日木曜日

〇10/8(月・体育の日)長野県上田市「信濃国分寺資料館」

〇信濃国分寺史蹟の前に「信濃国分寺資料館」がある。

館内の展示を閲覧し解説を読んでいけば、信濃国の古代史の概略が理解できる。
↑「信濃国の成立 5世紀ごろ盛んに作られた大古墳は、7世紀ごろになるとだんだん小さくなり、小古墳が集まった「群集墳」が多くなります。これは古墳を築く力のある人たちが多くなったことを物語っているわけです。このころになると、大和国を根拠とした大和政権が大きな力を持ち、全国に勢力を伸ばしてきました。わが科野(信濃)も、初めの形はこのころに成立したものと考えられます。」
↑「大和政権と信濃 もともと信濃は大和政権と深い関係にありました。奈良正倉院宝物の中には、地方から朝廷に納めた布などが沢山ありますが、信濃からのものは常陸・武蔵に次いで多くあります。それらには「信濃国印」が捺してあり、上田にあった信濃国府から送られたものと分かります。中には★郡(今の東御市)爪工部という人の名が書かれたものがあり、宮中の翳という貴いものを作った人が、この地方に住んでいたことが知られます。」
↑「信濃の国造 国造というのは、各地方を支配させるために、大和政権が有力者に与えた身分です。科野国造は、大和平野の中心に勢力を持っていた多(おお)氏の系統であると考えられます。多氏は天皇家の子孫と言われ、九州の阿蘇山の麓から大和に来たものです。その一族が上田市塩田に来て国造となり、仙田氏・金刺氏などに分かれました。今も塩田に阿蘇岡(安曽岡と書く)というところがあり、多氏の故郷の名を残しています。」
↑「生島足島(いくしま・たるしま)神社 上田市塩田の下之郷にある生島足島神社は信濃国造の居た所とされています。このお宮には、生島神・足島神という二座の神が祀られていますが、この神々はもともと宮中(天皇家)に祀られている神様です。国造となった多氏の一族がはるぱる都からお迎えして祀ったモノでしょう。この二神の御神体は大地であるといわれ、またお宮は池の中にあります。お宮の形としては最も古いものです。」


↑「信濃国府 東山道は大和政権と東国(東日本)を結ぶために最も大切な交通路でした。この道に沿って国々に国府が置かれました。国府とは、現在の県庁に当たる役所です。その国の政治の中心地です。科野(信濃)国の最初の国府は上田に置かれたことは疑いありませんが、その場所は不明です。但し最近の研究によって、上田市神科台地と、常田の信州大学繊維学部敷地や今の信濃国分寺周辺に推定されています。この国府は平安時代には松本地方に移りました。」
↑「仏教信濃へ入る 古代東山道、新東山道はいずれも中央と信濃を結ぶ大切な道でした。政治上重要であったばかりでなく、中央の文化もこの道を通じてぞくぞくと信濃に入ってきました。例えば善光寺(長野市)の境内から白鳳期(7世紀)の瓦が発見されていることは、仏教が日本に伝わってから間もなくこの信濃の地にも入って来たことを物語っています。」
↓美しいフォルムの鋳造仏なので写した。

↑「信濃国分寺の創建 奈良時代の文化で一番大きな出来事は、聖武天皇の詔で全国に国分寺が建てられたことです。天皇は国家が安らかに栄えることを祈るため、国ごとに国分寺(僧寺と尼寺があります)を建てさせ、その総本家として奈良に東大寺を建てさせました。しかし国分寺というのは、とても大きなお寺ですからどこの国でもそうやすやすとは建てられませんでした。信濃国も建立に嫡子手から完成するまで20余年かかったといわれます。」
↑「信濃国分寺(僧寺)の発掘 信濃国の国分寺が建てられた所は、現在の国分寺の位置ではなく、その南の段下の畑の中と推定されていました。底の発掘が始められたのは昭和38年のことです。そして9年に亘る大掛かりな調査の結果、見事に国分寺僧寺の跡の発見されました。沢山の瓦と共に礎石・雨落溝など次々と掘り出され、金堂・講堂・南大門・中門・廻廊・塔などを持つ一辺が約180mもある大きな寺域(境内)であることが分かりました。」

↑「尼寺の発掘 国分寺には僧寺と尼寺がありますが、信濃国分寺の尼寺の所在地にはいろいろな説があり、確かなことは分っていませんでした。所が古い文書の調査から僧寺跡の西方に尼寺の跡ではないかと思われるところが見つかり、僧寺跡に続いて発掘が始められました。そこからは金堂・講堂・中門・廻廊などのほか築地塀の跡まできれいに掘り出され、僧寺とほとんど同じ大きさの建物があったことが明らかになりました。」
↑ 信濃国分寺・僧寺跡模型。塔がある。
↑ 尼寺。塔がない。僧寺の尺度よりもちょっと大きい。実際はもう一回り小さい。
↑ 僧寺と尼寺の所在位置関係
↑↓「瓦窯跡 この国分寺跡の北側200mの崖の下に、瓦を焼いた窯の跡がみつかりました。東西に二つ並んでいることが分かりましたが、東側のものは埋めて保存し、現在西側の窯だけ観察できるようにしてあります。これは平窯という形式で、国分寺を建てたときの瓦などや、建立後数十年経ってからの修理用の瓦を焼いたものと推定されています。」
↓ 瓦窯跡


↓ 奈良・平安時代遺跡分布図。90°起こして見る。上田盆地・塩田平に集中している。

↑「現在の国分寺(八日堂) 信濃国分寺が衰えてしまうと(平安後期。平将門と田原藤太の戦いがこの地にまで及びその際の戦火で焼失したと伝承される)、この地方の民衆によって、一段上の平地に新しく寺が建てられ、国分寺の伝統をつぐことになりました。これが現在の国分寺です。それは鎌倉時代の初めころかと推定されますが、源頼朝がその再建に力を尽くしたという伝承があります。お釈迦様だった本尊もお薬師様となり民衆の寺として生まれ変わり、今日に至っています。毎月8日には金光明教の読経がありますので八日堂ともいわれます。」

↓ 三重塔・内陣

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