大興寺の歴史・由来
仁王門
縁起によると、天平十四年(742)熊野三所権現鎮護のために東大寺末寺として現在地よりも約1キロ北西に建立され、延暦11年(792)大師の巡錫を仰ぎ、弘仁13年(823)嵯峨聖帝の勅により再興されたと伝えられている。しかしながら、戦国時代末、長宗我部元親の兵火により一部を残してことごとくを焼失、慶長年間(1596〜1615)に再建されたが再び焼亡、本堂は寛保元年(1741)に建立されたものである。
現在の大興寺は真言宗の寺院であるが、往時真言二十四坊天台十二坊が甍を連ね、同じ境内で真言天台二宗が兼学したという珍しい来歴を持つ。そのためか天台宗の影響が大きく、本堂に向かって左側の弘法大師堂とともに、右側に天台宗第三祖智顗を祀る天台大師堂があるという配置にその名残を留めている。また本尊脇侍は不動明王と毘沙門天であるが、不動明王は天台様式である。
香川県の文化財として指定されているのは次の4件である。1つは像高84センチの本尊藥師如來坐像で、平安後期、檜寄木造り、漆箔、伝弘法大師作。鎌倉時代後期建治2年(1276)の銘がある天台大師坐像は檜寄木造り彩色で像高77.4センチ。天台大師の彫像は極めて少ない。仁王門にある雄渾な2の金剛力士立像は仏師として名高い運慶の作と伝えられ、像高314センチ。鎌倉初期の作、八十八ヶ所中最大とされる。「大興寺」と記された扁額には文永4年(1267)の年号と「従三位藤原朝臣経朝」の裏書きがある。
↓仁王門
庫の仁王像は伝「運慶」作というが、それはどうかなと思われる。
カヤの神木。樹齢1,200年と称されている。中が空洞でなく碁盤が沢山取れる状態なら、べらぼうな値がする。
大楠の神木。
本堂境内へ。
本堂境内
境内、手前に鐘楼が見える。
本堂・右手
本堂・左手
本堂・正面
本堂・側面
弘法大師堂。本堂向かって左手。
天台大師堂。本堂向かって右手。天台大師とは、智顗(ちぎ)大師のこと。
「大興寺」は真言宗御室派。本尊は薬師如来。
0 件のコメント:
コメントを投稿