承久の乱は、かねて源頼朝が諸国に守護地頭を置いて、政権を幕府が掌握していることを憂憤された後鳥羽上皇の発願によるもので、鎌倉幕府は、実朝が殺され源氏の血統は絶えたにもかかわらず、北条氏は幼少の将軍を立てて執権となっていたので、北条義時追討の院宣が下された。そこで順徳天皇は承久3年(1221)に位を皇太子懐成親王(仲恭天皇)に譲り、父後鳥羽上皇と北条義時追討の兵を挙げられたが敗れ、24歳の若さで佐渡に配流となった。後鳥羽上皇は隠岐の島に配流となったあの事変。在島22年、ついに帰京の願いはかなわず、46歳の時絶食して真輪寺(現在の真野宮)「阿弥陀堂」で崩御されたと伝えられています。
真野宮は明治になるまで真輪寺という真野陵(順徳天皇火葬塚)を管理してきた寺院だった。それが神仏分離で真野宮となり、住職は神職となった。
神門
拝殿
昭和天皇御手植えの松
拝殿
左・拝殿、右・本殿本殿の右側背後にある順徳天皇行在所跡。ここで天皇が配流生活を送られたものと思われる。
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