今日・日曜日は福井県北潟湖畔の花ショウブ園を探訪。花の季節はもう過ぎ去りつつあった。夕方家に戻ったら、女房が新聞を見て「アッ、珠洲にも花ショウブ園がある」と言い出した。よく訊くと・能登町柳田の植物園らしい。が、もういいわf(-_-;)。花の季節は終わったし、疲れたし。さしものボクも飽きたわ(・。・;。因みに柳田植物園の花菖蒲は7万株だそう。砺波市頼成の森の花菖蒲は70万株。規模の桁が違う。
今日の収穫は、加賀から越前に入ったなりの所にある「吉崎御坊」を探訪したこと。蓮如上人が京の本願寺を追い出されて都落ちし・最初に布教の地に選んだのがここ吉崎の地。この地の豪族・大家彦左衛門吉久が帰依して迎え入れた。蓮如は見る見るうちに一向宗教団を組織化した。組織化の天才。講組織を張りめぐらせたところが独創的。ボクが最初に探訪したのが「吉崎寺」。「嫁おどし肉付きの面」があったが、この寺は「吉崎御坊」の一部を成すのかどうか・はっきりしなかった(後でパンフをよく見たら、吉崎御坊・浄土真宗吉崎寺と明記してあるから吉崎御坊の一角を成すんだろう)。はっきりしたのは、蓮如上人記念館という洒落た宮造り風の目立つ建物施設が吉崎御坊と全く関係がないということ。本願寺と無縁の観光施設。「吉崎御坊」といわれる宗教施設はなかなか複雑な構成。「西御坊・西別院」と「東御坊・東別院」が別々に隣接して存在する。それぞれ本堂を構えた堂々たる寺院。東西両本願寺に対応したものか?両御坊の背後に隣接して「吉崎御坊・願慶寺」があり、何とこの寺にも「嫁威し肉付きの面」があるのだ。吉崎寺の面とは似ても似つかぬモノ。この手の面は他にもあっただろう。要するに布教・話のタネとして説教師が持ち歩いたことだろう。吉崎御坊の核心を成すのは、東西御坊(別院)・願慶寺の裏手の参道を登った所にある「御山(おやま)」の上の「吉崎御坊旧蹟」。蓮如上人時代の本堂等寺院の跡地。本堂などはすべて大昔に焼けてしまって・今は山上の平らな跡地に記念石碑があるだけ。願慶寺には蓮如上人時代に遡る古文書が沢山残されていて・その研究者である住職は言葉使いにうるさい。「御坊」というのは一種役所機能を有する寺院のことで、蓮如上人時代の「御山」の上の寺院には役所機能はなかった。だから御山の上の本堂旧蹟を吉崎「御坊」旧蹟と呼んではならないんだそう。ハイ分りました、と言うしかないf(~_~;)。驚くのは今も蓮如上人が京都から吉崎の地にやって来たことを記念する旅行事祭りが・京都から琵琶湖西岸伝いにここ吉崎の地までテクテクと歩き通して・連綿と300年間も続けられているということ。この御時世や、祭の担い手がいつまで保つものだろうか。
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