2013年8月21日水曜日

〇8/14(水)熊本県水俣市。水俣病の現地を訪ねる。

〇水俣市街地に着いた。煙突の見える中心部にチッソの工場が展開する。チッソ水俣工場は水俣市街地の中心に坐る、水俣市の王者なのである。チッソが潰れると、水俣市も財政破綻する。人口は激減する。
 水俣湾内の一漁港。

 「漁港竣工記念碑」。多分水俣湾の水銀汚染ヘドロの浚渫が完了して再び漁港としての機能を取り戻した時の記念碑。
 ↓昭和37年(1962)当時のチッソ水俣工場の全景。背後が水俣湾で、前面が市街地。
 ↓その後のチッソ工場
 ↓下図のやや右上に茶色で示された区域がチッソ水俣工場である。チッソは主に肥料を製造していたが、アセトアルデヒドも製造していた。そのアセトアルデヒドを製造する工程で水銀を触媒として使用した。その水銀まじりの排水を、チッソは製造を開始した昭和7年から水俣湾に流し続けた。水俣湾とは、下図の真ん中から下側に岬や島で囲まれた湾区域が見て取れるが、ここを指す。水俣湾の外に広がる海は不知火海である。昭和7年から昭和33年9月まで水俣湾に排水され続けた口は、赤い長方形2つのうち・下の赤長方形で示された所である。触媒として使われた水銀は無機水銀だったが、海中に入り生物に摂取され食物連鎖を経る過程でメチル水銀(有機水銀)となった。メチル水銀で汚染された魚を常食していた水俣湾沿岸の漁師達の中から最初の水俣病患者が発生した。メチル水銀は人間の体内に入ると神経細胞を破壊した。劇症の水俣病患者の大脳、特に中頭葉の細胞はほとんど消滅してスカスカだった。チッソは、昭和33年9月から昭和34年10月までの間はナント、上の方の赤長方形で示された水俣川河口に排出口を切り替えた。水俣川は不知火海に注いでいるのだ。その後、排水の完全循環方式などの措置がとられたが、不知火海への排出は完全には防止されなかった。なお、アセトアルデヒドの製造は昭和43年5月に停止された。
 ↓下図の中央埋立地が、ヘドロ処理事業で新たに生じた陸地。水俣湾に流入・堆積した水銀は70~150tといわれていた。このため209万㎡にわたって堆積する水銀濃度25ppmを上回る汚泥151万㎥を、一部埋め立て、一部浚渫により処理する事業を熊本県が事業主体となって実施した。この事業は昭和52年に着手され、平成2年3月に完了した。約485億円の費用を要し、このうち約6割を原因企業のチッソが負担し、残りを国・県が負担した。
 ↓ヘドロ処理事業で埋め立てられ出現した土地。見えているのはその一部。広大な埋め立て地は公園になっている。
 公園を見渡す岡の上に立つ水俣病被害資料館。被害の語り部達も登録されている。ここを訪れれば、水俣病被害のほぼ全容が分かる。
 被害資料館の隣に熊本県の環境研究センターが建つ。
 以下は「水俣メモリアル」。岡の上に立つ資料館よりもさらに一段高い岡の上にある。水俣湾を見下ろし、またチッソ水俣工場を見つめている。テラス・平面の色や感触は砂浜をイメージしているそう。
 ↓これは「祈りの噴水」だが、誰も訪れないせいか噴水は止められている。
 テラスに配置されたステンレスボールは、犠牲者となられた方々の魂のようでもあり、不知火海の漁火のようでもあります、と解説してあった。
 ↓魂が写っている訳ではない。ボクがボールを写している。
〇ボクが水俣を訪れたのは丁度お盆の中日。これも何かの御縁だったか。犠牲者になられた方々を悼んで参りました。チッソは健在。水俣市民も、水俣病があったことを忘れたかのように暮らしている。これが娑婆か。

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