〇源義経が奥州で挙兵し鎌倉の兄頼朝の許に馳せ参じるとき福島まで来ると、信夫郡の荘司・佐藤基治は、平泉の主君・藤原秀衡の命により、次男・継信と三男・忠信を義経の家臣として附けた。この兄弟は忠義を尽くして死に赴き歴史物語に良き名を残した。
〇「奥の細道」より。《月の輪のわたし(文字摺石の北約一キロ余にある阿武隈川の渡し)を越えて、瀬の上と云う宿に出づ。佐藤庄司(しょうじ)が旧跡は、左の山際一里半斗(ばかり)に有り。飯塚の里鯖野と聞きて尋ね尋ね行くに、丸山と云うに尋ねあたる。是、庄司が旧館也。梺(ふもと)に大手の跡など、人の教ゆるにまかせて、泪を落し、又かたはらの古寺に一家の石碑を残す。中にも、二人の嫁がしるし、先ず哀れ也。女なれどもかひがひしき名の世に聞こえつる物(もの)かなと、袂をぬらしぬ。堕涙の石碑も遠きにあらず。寺に入りて茶を乞へば、ここに義経の太刀、弁慶が笈をとゞめて什物(じゅうもつ)とす。
《笈も太刀も五月にかざれ紙幟(かみのぼり)》
五月朔日(ついたち)の事なり。》
☆「佐藤庄司が旧館のかたわらの古寺」というのが、これから訪ねる瑠璃光山医王寺である。
☆「中にも二人の嫁がしるし」は医王寺ではお目にかかれない。ボクが翌日訪ねた宮城県白石市の鐙擦(あぶみずり)の山峡の細道に面してある「甲冑堂」に収めてある二人の兄弟の嫁たちの甲冑姿の木像のことを、芭蕉が勘違いしてここに書いたのではないかという説が有力。
↓福島市飯坂温泉の手前にある二兄弟の菩提寺「医王寺」にたどり着いた時はもう五時過ぎ。山門が開いていたので無料で入った。
↓「信夫荘司・佐藤基治公、継信公・忠信公菩提寺」↓本堂境内に入る門。この門の前を素通りすると杉並木が一直線に続き、その奥に薬師堂があり、そして佐藤兄弟の墓がある。
↓門を入ると本堂境内
↓本堂境内に芭蕉句碑がある。
《笈も太刀もさつきにかざれ紙のぼり》
〇宝物館があった。夕刻も遅かったので入館できなかったが、伝・義経の太刀も伝・弁慶の笈も展示してあったろう。今思い返すと拝観せずに来たことに悔いが残る。
↓この杉並木の奥に佐藤兄弟の墓がある。
↓並木の途中に建つ義経、佐藤兄弟の石像。中央・義経公、向かって右・継信公、左・忠信公
↓薬師堂
↓「佐藤嗣信(=継信)公・忠信公墓」 この兄弟の墓石を削って粉にして飲むと健康を得られると信じられてきたので、墓石は半ば削られている。今は削られないように保護している。
↓「佐藤基治公・乙和姫墓」
↑「乙和椿の由来 信夫荘司佐藤基治公一族の墓域の西端にあって樹齢数百年つぼみが色つけば落ち一輪も花と開かず悲史母情を知るつばき。義経の家来として継信忠信の二人を西国に失った母乙和子姫の悲しみは謡曲「摂待」や「甲冑堂物語」の伝うるところであるがいつの世にも変わらぬ親の心がしのばれる。《咲かで落つ椿よ西の空かなし》」 ボクは翌日「甲冑堂」を訪れることになる。
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