↓探し回ってとうとうたどり着いた、「実方中将の墓」と「芭蕉の句碑」 セレナ君がいる。
実方橋。最近、観光用に作られた。↓中央が芭蕉句碑
↓芭蕉句碑
左が芭蕉句碑
《笠嶋はいづこ皐月のぬかり道》
↓「かたみのすすき」 かたみのすすきが出てくれば、ここで「奥の細道」を引用しなければ、すすきが何で出てくるのか分るまい。そこで、《鐙摺・白石の城を過ぎ、笠嶋の郡に入れば、藤中将実方の塚はいづくのほどならんと、人にとへば、「是れより遥か、右に見ゆる山際の里を、みのわ(箕輪)・笠嶋と云ひ、道祖神の社、かた見の薄(すすき)、今にあり」と教ゆ。此の比(ころ)の五月雨に道いとあしく、身つかれ侍れば、そよながら眺めやりて過ぐるに、箕輪・笠嶋も五月雨の折にふれたりと、
笠島はいづこさ月のぬかり道
岩沼に宿る。》
↓芭蕉句碑の右側背後に「かたみのすすき」はある。↓草鞋塚の碑
仙台の歌人・松洞馬年の句碑「笠島はあすの草鞋のぬき処」
↓実方の墓への参道
↓実方の墓「中将実方朝臣之墳(墓)」
↑「藤原実方朝臣(実方中将)の墓 藤原実方朝臣は中世三十大歌仙の一人で一条天皇につかえ、左近衛中将であったが藤原行成卿(書道の大家、三蹟の一人)との争いがもとで長徳元年(995)陸奥守に左遷され、はるばるとみちのくに下った長徳四年(998)冬、笠島道祖神社の前を乗り打ちして奇禍にあい、それがもとで、この地に薨じた。その命日は、里人によって「国司祭」とよばれたという。実方は、能因・西行にさきがけて、いわばみちのく歌枕散歩に先鞭をつけた人というべきであろう。星移り年変わって、西行がみちのくを訪れた時、野の中に立つ由緒ありげな塚をみて、これが実方の墓と知った彼は折りから霜枯れのすすきに心をよせ「朽ちもせぬその名ばかりをとどめおきて枯野のすすき形見にぞみる」の一首を残した。実方・西行にゆかりのあるこの地は芭蕉の詩心と遊心とをかき立てる憧憬の地であったにちがいなかったと思われる。しかし芭蕉は遂にその願いを断念せざるを得なかった。「笠島はいづこさ月のぬかり道」の一句は彼の万斛(ばんこく)の思いをこめた絶唱である。芭蕉の門人天野桃隣は先師の心をくんでか元禄九年(1696)はるばるとこの地に杖をひいたが、実方の墓はさらに風雪にあって様子をかえ「五輪(塔)は崩れて名のみばかり」であったと、その荒廃ぶりを紀行文「陸奥鵆(むつちどり)」に書きとどめた。今はその五輪塔さえ失われ、わずかに墳丘をとどめるばかりで、墓の畔には、西行の歌を刻んだ標石のほか、実方朝臣の「桜狩り」の歌碑があり、また西行の歌にゆかりのある一叢の薄の中に松洞馬年の句碑がある。」
↓西行の歌碑 1136年、西行法師が訪ねた折に詠んだ歌。《枯れもせぬそのな(名)ばかりとどめおきて 枯野のすすきかたみにぞ見ゆ》
↓実方顕彰の歌碑
《桜がり雨はふりきぬ・おなじくは ぬ(濡)るともはな(花)のかげ(蔭)にかくれむ》
〇これで第一次「奥の細道紀行」の旅は終わった。この後急旋回して郡山に戻り会津街道に入り、その夜は会津若松近くの道の駅で泊まった。
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