《奥の細道》より、
『それより(壺の碑と面会した後)野田の玉川、沖の石を尋ぬ。末の松山は寺を造りて、末松山(まっしょうざん)といふ。松のあひあひ皆墓はらにて、はねをかはし枝をつらぬる契(ちぎり)の末も終(つひ)にはかくのごときと、悲しさも増さりて、塩がまの浦に入相(いりあひ)のかねを聞く。』
《曾良随行日記》より、
『(五月)八日 ‥‥未の尅(刻、午後二時頃)、塩竈に着き、湯漬など喰う。末の松山・興井(沖の井)・野田玉川・おもハく(思わく)の橋・浮嶋等を見廻り帰る。出初めに塩竈ノかまを見ル。宿、治兵へ(衛)。法蓮寺門前、(画工)加衛門(の)状添う。銭湯有るニ入る。』
〇歌枕の数々を探訪するつもりだったが、多賀城市街を幾ら走り回っても一つも見当がつかない。そんな時、「多賀城廃寺」を発見。そこにあった観光案内板を見て地に足がつく。
↓多賀城廃寺跡
〇「野田の玉川」 多賀城址の東方約1km余の所を流れる。昔は月の名所。歌枕。
〇「思わくの橋」 歌枕
↓発見・到達に苦労した。何人もの市民に訊いて回った。
↑歌枕 能因法師の歌
《ゆふされはしほ風こしてみちのくののだの玉河千鳥なくなり》(新古今和歌集)
↓野田の玉川・上流
↑歌枕 西行
《ふまゝうきもみちのにしきちりしきて人もかよはぬおもはくの橋》(山家集)
↓野田の玉川・下流
↓現代版・思惑の橋
〇「末の松山」「沖の石」「浮嶋」などは次回に。
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