『日既に午(うま、正午頃)にちかし。船をかりて松嶋にわたる。其の間二里余、雄島の磯につく。
抑(そもそも)ことふりにたれど、松嶋は扶桑(日本)第一の好風にして、凡そ、洞庭・西湖を恥ず。東南より海を入れて、江の中(うち)三里、浙江の潮(うしほ)をたゝふ。嶋々の数を尽くして、欹(そばだつ)ものは天を指(ゆびさし)、ふすものは波に匍匐(はらばふ)。あるは二重にかさなり、三重に畳みて、左にわかれ右につらなる。負へるあり抱けるあり、児孫愛すがごとし。松の緑こまやかに、枝葉汐風に吹きたはめて、屈曲をのづからためたるがごとし。其の気色、窅然(ようぜん、奥深い様)として美人の顔(かんばせ)を粧(よそほ)ふ。ちはや振(ぶる)神のむかし、大山ずみのなせるわざにや。造化の天工、いづれの人か筆をふるひ、詞(ことば)を尽くさむ。
雄島が磯は地つゞきて海に出たる島也。雲居(うんご)禅師の別室の跡、坐禅石など有り。将(はた)、松の木陰に世をいとふ人も稀々見え侍りて、落穂・松笠など打ちけぶりたる草の庵、閑かに住みなし、いかなる人とはしられずながら、先づなつかしく立寄るほどに、月海にうつりて、昼のながめ又あらたむ。江上(こうしょう)に帰りて宿を求むれば、窓をひらき二階を作りて、風雲の中に旅寝するこそ、あやしきまで、妙なる心地はせらるれ。
松島や鶴に身をかれほととぎす 曾良
予は口をとぢて眠らんとしていねられず。旧庵をわかるゝ時、素堂(江戸における芭蕉の雅友)松島の詩あり、原安適(江戸の歌人)松がうらしまの和歌を贈らる。袋を解きて、こよひの友とす。且、杉風(さんぷう)・濁子(じょくし)が発句あり。』
↓雄島に架かる朱塗りの渡月橋。磯と地続きでは決してない。
↓雄島に架かる朱塗りの渡月橋。磯と地続きでは決してない。
橋を渡るとそこは雄島の中央部。
↓橋を渡ると直ぐに真珠稲荷がある。
↓雄島の中央やや南方に坐禅堂がある。
↓南端の「頼賢の碑」に向かう。
六角堂の中に「頼賢の碑・重文」が収納されている。左の建物は東屋。
↑「重文 奥州御島・頼賢の碑
この碑は、徳治2年(1307)に松島雄島妙覚庵主頼賢の徳行を後世に伝えようと弟子30余人が雄島の南端に建てたものである。頼賢の碑は、中世奥州三古碑の一つと言われるものであり、‥‥その右に「奥州御島妙覚庵」、左に「頼賢庵主行實銘井」と楷書で記してある。‥‥」 碑の全容は堂外からは写せない。
↓「奥州」
↓「御島」
↓「妙覚」
↓「頼賢」
↓「庵主行‥」
〇《奥の細道》によれば、松島の宿りは二階建の海に窓を開いた風流な宿屋だった。《曾良随行日記》には宿屋の名が記されている。『松島に宿す。久之助と云ふ。(仙台の画工)加衛門状添う。』 瑞巌寺の門前(海岸線)に「芭蕉が月を見ながら一宿した宿」と二階のガラス窓に大書した貼り紙をした三階建のコンクリート造りの土産物店兼宿屋があった。多分この家の主が子孫に当るのだろう。
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