《奥の細道》より、
『(五月)十二日、平和泉(ひらいづみ)と心ざし、あねはの松、緒だえの橋など聞き伝へて、人跡稀に雉兎(ちと)蒭蕘(すうぜう)(漁師と柴刈り)の往きかふ道、そこともわかず、終に路ふみたがえて、石の巻といふ湊に出づ。「こがね花咲く」とよみて奉りたる金花山(きんくわざん)、海上に見わたし、数百の廻船、入江につどひ、人家地をあらそひて、竈の煙立ちつゞけたり。思ひかけず斯かる所にも来たれる哉と、宿からんとすれど、更に宿かす人なし。漸う、まどしき(貧しき)小家に一夜をあかして、‥‥』
〇芭蕉は、石巻に到達したのは本意でなかったように書いている。また、石巻では宿貸す人がなく・やっと貧しい小家に泊めてもらったように書いている。しかし、曾良の随行日記にはそのようなことは全く表れない。むしろ芭蕉の文と矛盾する事歴を挙げている。どうやらこのくだりには、芭蕉の文学的虚構癖がふんだんに出ているらしい。
《曾良随行日記》より、
『(五月)十日 快晴。松島立つ(馬次ニ 而してナシ(宿駅の馬を利用しようとしたがなかったらしい)。間廿丁計(ばかり))。馬次、高城村、小野(是より桃生郡。弐里半)、石巻(四里余)、仙台より十三里余(この間は馬に乗れたらしい)。』 そして曾良は面白い挿話を書き留める。『小野ト石ノ巻(牡鹿郡)の間、矢本新田ト云う町ニ而(て)咽乾き、家毎ニ湯乞ふ共不ㇾ与(あたえられず)。刀さしたる道行人、年五十七、八、此の躰(てい)を憐みテ、知人ノ方ヘ壱町程立ち帰り、同道シテ湯を可ㇾ与(あたえるべき)由ヲ頼む。又、石ノ巻ニテ新田町四兵ヘ(衛)と尋ね、宿可ㇾ借(かりるべき)之由云うテ去ル。名ヲ問、ねこ村(小野ノ近ク)、コンノ源太左衛門殿。如ㇾ教(おしえのごとく)、四兵ヘ(衛)尋ねテ宿す。着の後、小雨ス。頓而(すぐにて)止ム。日和山と云うヘ上ル。石ノ巻中不ㇾ残(のこらず)見ゆル。奥ノ海(今ワタノハト云う)・遠嶋・尾駮(おぶち)ノ牧山眼前也。真野萱原も少し見ゆル。帰りニ住吉ノ社参詣。袖の渡リ、鳥居の前也。』 芭蕉は、石巻への道中で味わわされた不人情がよほど腹に据えかねたのかも知れない。石巻での芭蕉の創作は、歌枕・名所旧蹟の巡歴順序のありえない変更にも表れる。もっともそれは、純然たる文学的創造と思われるが、奥の細道の文はこう続く。
『漸う、まどしき小家に一夜をあかして、明くれば又、しらぬ道にまよひ行く。袖のわたり、尾ぶちの牧、まのゝ萱はらなどよそめにみて、遥かなる堤を行く。』 袖の渡りなどを探訪する旅は、翌朝北に向けて遥かなる堤道をとぼとぼと歩いて行くときに見た光景と化している。石巻到着日に日和山から眺めたり、日和山からの帰りに尋ねたことなのに。
〇「あねはの松」 松島の北14里姉歯にあった松の大木。歌枕。「栗原のあねはの松の人ならば都のつとにいざとはましを」(伊勢物語)
〇「緒だえの橋」 松島の西北7里、古川市にあった太鼓橋。歌枕。「みちのくのをだえの橋や是ならんふみみふまずみこころまどはす」(後拾遺・道雅)
〇「こがね花咲く」 万葉集・大伴家持の歌「すめろぎの御代栄えむとあづまなるみちのく山に黄金花咲く」 奈良の大仏建立の折り、大仏を荘厳する金箔が不足していたが、まさにその時、陸奥国から金が出土した旨の朗報が都にもたらされた、そのことを寿いだ歌。
〇文章が長くなりすぎたので、日和山の写真は次回に報告することに。
〇石巻への道中が芭蕉の気を悪くしたのは事実だろう。このような事態は、その後・越後路でも現れる。越後路でも芭蕉の気を悪くさせる不人情な出来事が重なって、越後路はほとんど『奥の細道』の中では影が薄い。その間の事情は『曾良随行日記』を読むと窺い知れるから面白い。
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