2015年6月10日水曜日

〇《奥の細道》紀行・出羽路(6) 山形県天童市「立石寺(りっしゃくじ)」(一)《閑さや岩にしみ入蝉の声》

奥の細道》より、
山形領に立石寺と云ふ山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊に清閑の地也。一見すべきよし、人々のすゝむるに依りて、尾花沢よりとつて返し、其の間七里ばかり也。日いまだ暮れず。梺(ふもと)の坊に宿かり置きて、山上の堂にのぼる。岩に巌(いはほ)を重ねて山とし、松柏年旧(しょうはくとしふり)、土石老いて苔滑らかに、岩上(がんしょう)の院々扉を閉ぢて、物の音きこえず。岸をめぐり、岩を這ひて、仏閣を拝し、佳景(かけい)寂寞(じゃくまく)として心すみ行くのみおぼゆ。
閑さや岩にしみ入蝉の声 
↓「山寺(やまでら) 宝珠山立石寺を中心とする山寺は、清和天皇の勅許をいただいた慈覚大師により、貞観2年(860)に開かれたと伝えられています。全山を構成する角礫凝灰岩は、永年の水蝕と風蝕を受けて奇岩怪石となり、これが樹木の間に見え隠れする姿は、四季折々に本当にすばらしい景観となっています。また、境内地の参道石段は、立ち並ぶ句碑や板碑とともに苔むして、老杉や怪石の間にはたくさんの堂塔が建てられ、千古の静寂をたたえています。元禄2年(1689)には、俳聖松尾芭蕉が門人の河合曾良とともにこの地を訪ね、
閑さや岩にしみ入関の声
の名句を「おくのほそ道」に残しています。
↓本堂へ


↑「山寺立石寺と根本中堂 ‥‥。慈覚大師は、辺境の東北各地に、多くの寺院を建立したが、立石寺の創建には特に力を入れ、明るく正しい人間を養成する道場を確立し、鎌倉時代には、東北仏教界の中枢をなして、山上山下三百余の寺坊に一千余名の修行者が居住、盛況を極めた。戦国時代、山内が兵火をあびて一時衰退したが、江戸時代には、御朱印2800石を賜って再び隆盛を見、宗教文化の殿堂を築きあげた。現在の立石寺は、境内35万坪の自然の岩山に、40余の堂塔を配し、平安初期以来の山岳仏教の歴史を物語る、日本を代表する霊場である。
 正面の大きな建物は、国指定重要文化財の根本中堂である。延文元年(1356)初代山形城主・斯波兼頼が再建した、入母屋造・五間四面の建物で、ブナ材の建築物では日本最古といわれ、天台宗仏教道場の形式がよく保存されている。
 堂内には、慈覚大師作と伝える本尊の木像薬師如来坐像をはじめ、文殊菩薩、毘沙門天などが安置され、伝教大師が中國から比叡山に移した灯を立石寺に分けたものが、今日も不滅の法灯として輝いている。織田信長の焼打で延暦寺を再建したときには逆に立石寺から分けたという、不滅の法灯を堂内で拝することができる。
あきらけくのちのほとけのみよまでも
ひかりつたえよのりのともしび 」
↓本堂・重要文化財


↓本堂境内に神社がある。日枝神社


↓芭蕉句碑。背後に清和天皇御宝塔がある。
《閑さや岩にしみ入蝉の声》
清和天皇御宝塔
↓芭蕉と曾良の銅像










↓念仏堂


↓下段中央に念仏堂と鐘楼が見える。
  ↓山門。いよいよ山上・奥ノ院に挑戦、石段は一千余段。




↓姥堂。これが最初の堂宇。奪衣婆が居る。










↓修行者の参道


↓四寸道。道幅が四寸しかない。




↓せみ塚 「‥‥芭蕉翁の句をしたためた短冊をこの地に埋めて、石の塚をたてたもので、せみ塚といわれている。」
↓手前の四角柱には「せみ塚」、背後の丸い碑には「芭蕉翁」とある。
↓せみ塚の背後に聳える岸壁。これぞ、「岩にしみ入る」の岩に相応しい。


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