2015年7月5日日曜日

〇《奥の細道》紀行・越後路(1) 芭蕉は越後路をただ一篇の文章で切り捨てた。何故か。

芭蕉と曾良の越後路の旅程は、陰暦6月27日から7月12日(陽暦8月12日から8月26日)までの15日間。盛夏の旅だった。暑気に当てられて創作意欲を失わせられた面はあろう。しかしそれにしても、芭蕉が越後路について《奥の細道》に書き残したのはただの一章である。只事ではなかろう。越後国も北陸道の一部なのに、私が越後路を北陸路からわざわざ分けて別章にするのは、只事ではないからだ。以下先ず《奥の細道》の越後路の章段の全部を一挙に掲示して、越後路に対する芭蕉の異様な態度を味わって戴く。その後に《曾良随行日記》の叙述に従って芭蕉が辿った越後路の真実を知り、《奥の細道》との乖離を味わって戴く。越後路で、芭蕉の心に何があったのか。
奥の細道》より、
酒田の余波(なごり)日を重ねて、北陸道の雲に望む。遥々(はるばる)のおもひ、胸をいたましめて、加賀の府まで百卅里と聞く。鼠の関をこゆれば、越後の地に歩行(あゆみ)を改めて、越中の国市ぶり(実は越後の国)の関に到る。此の間九日、暑湿の労に神をなやまし、病おこりて事をしるさず。
文月や六日も常の夜には似ず
荒海や佐渡によこたふ天河
 今日は、親しらず子しらず・犬もどり・駒返しなど云ふ、北国一の難所を越えてつかれ侍れば、枕引きよせて寝たるに、一間(ひとま)隔てて面(おもて)の方に、若き女の声二人斗(ばかり)ときこゆ。年老いたるお(を)のこの声も交じりて物語するをきけば、越後の国新潟と云ふ所の遊女成し。伊勢参宮するとて、此の関までお(を)のこの送りて、あすは古郷にかへす文したゝめて、はかなき言伝(ことづて)などしやる也。「白浪のよする汀(なぎさ)に身をはふらかし、あまのこの世をあさましう下りて、定めなき契(ちぎり)、日々の業因(ごういん)、いかにつたなし」と物云ふをきくきく寝入りて、あした旅立つに、我々にむかひて、「行衛(ゆくへ)しらぬ旅路のうさ、あまり覚束なう悲しく侍れば、見えがくれにも御跡(おんあと)をしたひ侍らん。衣の上の御情(おんなさけ)に、大慈のめぐみをたれて、結縁(けちえん)せさせ給へ」と泪(なみだ)を落す。不便(ふびん)の事には侍れども、「我々は所々にてとゞまる方おほし。只人の行くにまかせて行くべし。神明の加護かならず恙(つつが)なかるべし」と云ひ捨てて出でつゝ哀れさしばらくやまざりけらし。
一家(ひとついへ)に遊女もねたり萩と月
曾良にかたれば、書きとゞめ侍る。』
〇越後路篇はこれだけ。後も先もない。
〇「此の間九日」 鼠の関を越えて市振まで(越後路全部)、この間の旅程を芭蕉は九日と言っているが、《曾良随行日記》によれば実は十五日。
〇「曾良にかたれば、書きとゞめ侍る」 曾良のこの日・市振での日記は次の通り。
十二日 天気快晴。能生ヲ立つ。早川ニテ翁ツマヅカレテ衣類濡れて、川原暫し干ス。午の剋(うまのこく、正午)、糸魚川ニ着き、荒ヤ(屋)町、左五左衛門ニ休ム。‥‥。申ノ中剋(さるのちゅうこく、四時過ぎ)、市振ニ着き、宿
十三日 市振立つ。虹立つ。‥‥ 』 これがすべて。「曾良にかたれば、書きとゞめ侍る」←この文自体が芭蕉の創作・虚構の可能性大。

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