〇やれやれという思いで有岡城(伊丹城)に到着した。伊丹市街のど真ん中。最初に見たのはこの城砦の石垣。どうやらこの辺りが有岡城の主城砦。荒木村重が一旦信長に服属しながら、後に叛旗を翻して立て籠もった城跡の見分を遂に果たせた。
↓城郭跡を一周してみる。↓この辺りは濠で防御していたらしい。
↓主城砦の中に登ってみる。
↓「史跡 有岡城跡」
↓石段の上から見下ろす。
↓石段を登り切ったら城郭跡の平地が開ける。多分ここは本丸跡。
↑「荒木村重は‥父の代から池田城主・池田氏に仕えたらしい。織田信長の上洛後、池田勝正は伊丹城主・伊丹親興、芥川城主・和田惟政と共に摂津三守護となり、村重は勝正の家臣として徐々に力を付け、池田家の内紛に乗じて遂に頭角を現します。元亀元年(1570)池田知正らと共に池田勝正を追放し、翌年には勝正と結ぶ惟政を郡山(茨木市)の合戦で敗死させました。1573年、逢坂(大津市)にて細川藤孝と共に信長と対面し、その後は信長を主君と仰いで、将軍足利義昭を槙島城(宇治市)に攻撃する際にも従いました。この時の忠節を称賛されて、信長より摂津国を一職(いっしき)支配する「摂津国主」に任ぜられました。天正2年(1574)、伊丹氏を追い落とし、伊丹城に入城しました。以後ここを居城に定め、有岡城と改名しました。信濃守村重は天正3年、摂津守となりました。有岡城主となった村重は、以後、信長の配下として、1574年播磨に出兵し、翌年は光佐(顕如)が立て籠もる石山本願寺(大阪市)包囲に加わりました。1576年には羽柴秀吉と共に雑賀(和歌山市)を攻めています。1577年、足利義昭や毛利輝元と通じて信長に反した別所長治を三木城に攻めました。しかし同年、突如村重も信長から離れ、石山本願寺とも同盟を結びました。その情報は安土城の信長にも届き、信長は村重を思い留まらせるため明智光秀や近親を有岡城に遣わしましたが、村重の決心は変わりませんでした。村重と共に毛利方についた御着城主・小寺政職はやはり信長方に戻るため、村重を説得しようと家臣の黒田官兵衛を有岡城に遣わします。村重はこのままでは信長方ととなる官兵衛を城内に留め置きました。11月、信長は安土城を立ち、古屋野の陣に入ります。12月2は主力部隊を塚口におき総攻撃をしますが落ちません。そのため有岡城を取り囲むように付城を築くように指示します。1578年9月、村重は数名の家臣と共に、尼崎城主である嫡男・村次の元に移り、本願寺・雑賀・毛利方に援軍を要請しますが、村重の望むように援軍は来ません。有岡城の町が信長方に取られ、10月、上臈塚砦より信長軍が浸入し、侍町に火が放たれ、すべてが焼かれ防備がなくなると、11月、城は落ちてしまいました。村重父子は尼崎城が落ちると花熊城(神戸市)に移り、その後西走します。村重は尾道にて入道し「道薫」と名乗ります。信長の死後、尾道より堺に移り住みました。天正14年(1586)堺にて没したとされています。」
↑「あらきたし
霜かれに残りて我は八重むくら なにはのうらのそこのみくろに
荒木村重
思いきやあまのかり橋ふみならし なにはの花も夢ならむとは
信長公記より」
↓井戸跡↓主城砦の向かいは鉄道線と駅になっている。こちらにも城砦跡が広がっていたが、鉄道と駅の建設のため削られたそう。
↓駅の傍のトイレ。トイレの壁にピラミッド型のタイルが貼られているが、よく見るとそれは石垣を表している。
↓先に登った主城砦の横にも大きな城砦跡がある。
↓横の別の城砦跡石垣
↓こちらにも「史跡 有岡城跡」の石碑
こちら側の城砦跡の上は、タクシー乗場になっている。
↓タクシー乗場側の城砦跡から、先に登った本丸跡らしき城砦の方を見る。このように有岡城跡は伊丹市街の都市開発に既に呑み込まれている。が、この一角はこのまま永久保存されるだろう。
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