2016年8月19日金曜日

〇8-12(金) 栃木県大田原市「国宝・那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ)」「笠石神社」拝観

〇栃木県南端・栃木市から一挙に北部の那須・大田原市に転進。所要片道2時間。「国宝・那須国造碑」に会うため。この石碑は頭に笠のような石を被っているらしい。それでこの国宝石碑を本尊として祀っている神社は「笠石神社」と名付けられている。ボクはこのような文化財の存在を知ると血沸き肉躍る性質で駆けつけずにはおけない。
↓「国宝・那須国造碑 総高148cm、石材・花崗岩
この碑は、西暦700年頃に、那須国造であった那須直(なすのあたい)韋提(いで)の遺徳をたたえるため、その息子と思われる意斯麻呂(おしまろ)らによって建立された碑です。文字の刻まれた碑の上に笠状の石を載せた特異な形をしていることから、この地域では「笠石さま」として親しまれています。碑には、8行に各19字すつの計152字が刻まれており、その書体には中国の六朝時代の書風が感じられます。また、碑文冒頭には「永昌」という唐の則天武后の時代に使用された年号が用いられているなど、その当時に大陸や半島から渡来してきた人々の影響が色濃く残されています。この碑の保存には、江戸時代の水戸藩主、徳川光圀も関わっています。長い間倒れ埋もれていたこの碑を、磐城の僧(円順)が発見し、小口村梅平(現那珂川町)の名主、大金重貞に話し、それが、徳川光圀へ伝えられました。そして、この碑が貴重なものであることがわかったことから、元禄4年(1691)碑堂を建て碑を安置しました。これが、現在の笠石神社となっています。なお、多賀城碑(宮城県)・多胡(たご)碑(群馬県)とともに日本三古碑として知られています。」 ★隆君註:日本年号ではなく「永昌」という中国年号が使われたのには理由がある。「永昌」時代は日本史では天武天皇の崩御から701年の大宝律令制定までの間に該当する。この間、日本には年号がなかった。日本の年号が刻まれていないところにこそこの石碑の真価がある。
 ↓「笠石神社」は極少社。ピンポイントで探さねばならない。が、ボクは到達した。執念。


 ↓このお堂の中に「国宝・那須国造碑」が本尊として安置されている。

 ↓本尊の石碑。頭に笠石を被っている。御本尊は撮影禁止。なので、最初の案内板の写真の右肩に付せられている写真を切り取り拡大してここに紹介した。
 〇予約客を待っていたボランティアのおじさんが予約客が来ない間にボクに懇切に説明してくれた。研究家だった。
↓碑面を3DV撮影したもの。おじさんが撮影を許可してくれた。拓本も購入した(2000円)
 ↓「国造の碑文を読めば那須の国の 早くひらけし太古思ほゆ」 そのまんまの歌だが、日本史が大和中心史観・東夷史観に流れてきたのに対し一矢報いることのできる石碑が残っていたことの嬉しさを端的に表している。那須人が詠んだ歌だろう。
〇予約客の要請に応じてわざわざ神社に出向いて待っていたおじさんに偶然出逢えたお蔭で、ボクは薀蓄を傾けてもらい・碑面の写真を撮らせてもらい・拓本を入手し・剰え本堂の鍵を開けて国宝本尊の「那須国造碑・笠石さま」と対面させてもらえた。長く旅を続けているとこのような僥倖にも恵まれる。予約客は結局来なかった。

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