〇笠石神社は、徳川光圀が元禄4年に建立した。「笠石さま」は永い間野に埋もれていたが、情報を得てその重要性に気付いた光圀公が「笠石さま」を御神体として創建した。絵は明治36年1月時点の姿。
↓笠石碑面の拓本。2000円で入手できる。但し神社関係者に予約を入れて行かないと誰もいない。↓碑面を3DV撮影したもの。それを撮影させてもらった。
↓「国宝・那須国造碑」「笠石神社縁起」
↓碑面の全文字を活字におこし、その読みを併記してある。要の文字の字体・読み・解釈に説が分れる部分もあるが、貴重な書。
↑「‥‥ 那須国造碑文(仮名交文) 永昌元年巳丑四月、飛鳥浄御原の大宮那須国造、追(つい)大壱(だいいち)那須「直」(あたい)(この字を「直」と見たのは新井白石。それまでは別の字体と見て読み・意味を別にしていた。白石は氏姓の一つの「直・あたい」とみたわけ)韋提(いで。人名)に、評(こおり。「郡」の字を当てるのは時代が下がってから。即ちこの碑が書かれた時代の測定ができる)の督(かみ)を賜る。歳庚子(かのえね)に次(やど)る。年の正月二壬子(みづのえね)の日、辰節(たつのとき)に弥故(もっこ)す。意斯麻呂(いしまろ。多分「韋提」の子息)等碑を立て徳を銘すと弥云(しかいう)。‥‥」
「永昌」という中國の年号が刻されていることの意味については、8-19(金)のブログの「隆君註」で記述。日本に年号がなかった時代がある。天武天皇崩御から701年大宝律令制定までの十数年間。この碑は、日本に年号空白の時代に作られた。また碑文を読むと、碑文起草者は中国情報・漢籍に通じていたことが分る。当時の北関東の住人の氏素性に繋がる情報だろう。
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