↓芭蕉堂
↑↓《よくみればなづな花さく垣ねかな ばせを》
↓「服部土芳墓」
↓「若菜塚」
↑↓《そっと往てわかな摘まばや鶴の傍 土芳》
↓「わらじ塚」
↓蓑虫庵・正門。閉ざされている
↓蓑虫庵
↓《みのむし乃ねをきヽにこよ草の庵 はせを》
↓「史蹟及び名勝・蓑虫庵 伊賀における芭蕉ゆかりの草庵には、瓢竹庵・東麓庵・西麓庵・無名庵・蓑虫庵があり、後に「芭蕉五庵」と称しましたが唯一現存しているのが蓑虫庵です。蓑虫庵は松尾芭蕉の伊賀上野における門人服部土芳(1657~1730)の草庵で、元禄元年(1688)3月に入庵しています。庵号は芭蕉が「蓑虫の音を聞きに来よ草の庵」の句を贈ったことによるものと伝えられています。土芳は伊賀蕉門の中心人物として、ここで芭蕉の偉業を後世に伝えるため、「三冊子」をはじめ「蕉翁句集」「蕉翁文集」「奥の細道」などを著しています。また、入庵後の生活を事細かく書きとどめた「庵日記」「横日記」「蓑虫庵集」等を通じて当時の蕉門伊賀連衆の動向が手に取るように理解できます。同12年(1699)11月26日庵は焼失してしまいましたが、その後ほどなく門人土田杜若らの援助により再興しています。享保15年(1730)土芳没後、庵は荒廃しましたが東町の豪商築山桐雨が安永3年(1774)に、片原町の豪商服部猪来等が文化7年(1810)に再興しています。明治維新の変換期を迎えて以後、町井台水・辻本専之助・中村玄瑞・浜辺毎文・菊本直次郎・赤塚進一各氏ら上野市に縁故のある篤志家に継承され、敷地も拡張、南門(現状の正門)や中門が建てられました。昭和に入り、管理棟背後の茶室や芭蕉堂が建てられ、このとき表門(現状の東門)の建替えや、土芳の供養墓・句碑等も整備されました。昭和13年1月19日、蓑虫庵は「史跡及び名勝」として三重県指定文化財となり、昭和35年12月に上野市の所有となりました。翌31年から一般公開されています。‥」
↓古池や蛙飛びこむ水の音 はせを
↓蛙が居る
↓出口
0 件のコメント:
コメントを投稿