〇「史蹟・芭蕉翁故郷塚」
↓「愛染院故郷塚の由来 ‥‥また、当寺はわが国の詩歌史上、俳諧という庶民詩の一大金字塔を樹立した国民的大詩人松尾芭蕉翁の生家松尾氏の菩提所である。芭蕉翁は、正保元年のこの寺のすぐ西にあたる赤坂の街で誕生し、29歳までこの地で暮らした。30歳の時決する処あって江戸に下り、俳諧の宗匠となり、遂に蕉風体を完成させたが、元禄7年10月12日西国周遊の途中、大阪の地で病没した。芭蕉翁の遺骸は遺言により、膳所の義仲寺に葬られたが、訃報を受けて、翁の臨滅に馳せ参じた伊賀の門人貝増卓袋、服部土芳は生地に遺髪を奉じて帰り、先塋(エイ・ヨウ・はか)の傍に墳を築いて故郷塚ととなえた。塚の碑は服部嵐雪の筆に成るもので
元禄7甲戌年 芭蕉桃青法師 10月12日
と刻まれている。翁の没後、伊賀の門人たちは、「しぐれ忌」と称して翁の忌日を追善し、その遺風は連綿と今に伝えられている。」
↓「芭蕉翁故郷塚」↓松尾氏菩提寺・愛染院
↓本堂は真逆の光に遮られた。
↑↓「家はみな杖にしら髪(が)の墓参り 芭蕉
元禄7年(1694)芭蕉51歳の作。季語「墓参り」で秋。夏、大津に滞在していた芭蕉が実家の兄松尾半左衛門より手紙で郷里に招かれ、伊賀上野へ帰郷し、一家そろって当時の祖先の墓に詣でた折の句。句の成立は、支考(しこう)の『笈(おい)日記』や『芭蕉翁追善之日記』に、「7月15日」とする。土芳(どほう)の『三冊子(さんぞうし)』によれば、「家はみな、はじめは、一家(いっけ)みな、とあり。」とあることから、『芭蕉翁行状記』(路通編)などに収められる「一家みな白髪に杖や墓参り」が初案で、後に『続猿蓑(さるみの)』(沾圃芭蕉撰)に収める際、この「家はみな」の句形に推敲された。長い歳月を経て、故郷の親族が誰もかも年老いてしまった寂しさ、生き永らえて睦まじく先祖の墓参りをする懐かしい喜びが巧みに表現され、しみじみとした老境の感慨や、言いがたい寂寥感の漂う句である。句意は、「故郷の盆会に一族の者と墓参りにでかけた。みな年老いてしまい、杖をつき白髪の者もいる。自分もまた同じように、年をとってしまったものだ」」
↓「偲翁碑」
↓故郷塚入口
↓「故郷塚維持の為参拝香華料200円(しおりつき)
こちら側の扉を押してお入り下さい」
元禄7年(1694)芭蕉51歳の作。季語「玉(魂)祭り」で秋。『有磯海』(浪化編)に「尼寿貞(じゅてい)が身まかりけるときゝて」と前書する。「身まかる」は人が亡くなること。「玉(魂)祭り」は、陰暦7月15日に祖先の霊を祭る仏事、盂蘭盆会(うらぼんえ)をいう。伊賀上野で盆会を迎え、一族の人々と共に法要を営んだ芭蕉が寿貞の死を悼み詠んだ句。寿貞に関する資料は、元禄7年5月以降の芭蕉の手紙5通(内、遺書1通)と、この追悼句一句のみで不明な点が多く、芭蕉の甥桃印(とういん)の妻とする説、など諸説ある。5月11日、芭蕉が上方へ旅立った後、寿貞は芭蕉庵へ身を寄せていたが、6月2日頃病没した。旅中、寿貞の訃報に接した芭蕉は、「寿貞無仕合(ぶしあわせ)もの、まさ・おふう(ともに寿貞の娘)同じく不仕合、とかく難申尽(もうしつくしがたく)候」(同年6月8日付猪兵衛宛芭蕉書簡)と、その死を深く嘆いている。「数ならぬ身とな思ひそ」に、芭蕉の寿貞の霊に対する悲痛な呼びかけと、情愛が感じられる。句意は、「自分のことを物の数にも入らない身だと決して思わなくてもいいよ。どうぞ私の心からの供養を受けて下さい」
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