〇目指すは安楽寺・国宝八角三重塔。別所温泉にある。
↓別所温泉入口に建つゆかしげな御堂
↓「曹洞宗崇福山安楽寺案内図 安楽寺は天長年間(824~834)に開かれたと伝えられる寺で、鎌倉時代中期には鎌倉北条氏の外護により禅寺として栄え、多くの学僧を育てていた。しかし北条氏滅亡(1333)後は、寺運も傾いて正確な資料も残らないが、国宝・重要文化財等数多くの文化遺産を蔵して、信州最古の禅寺のおもかげを残している」↓山門へ
境内へ。正面・本堂
↓十六羅漢堂
↓鐘楼(羅漢堂の向かい)
↓本堂
↓本堂右横に式台(玄関)↓式台から右に折れて庫裏(禅悦堂)
↓本堂の左に坐禅堂(選佛場)
↓受付を通って山側に、経蔵
↓回転式書庫
↓傳芳堂
↓重文・安楽寺開山禅師坐像、重文・安楽寺二世禅師坐像が安置されている
↓山の上に国宝・八角三重塔が見えてきた
↑「国宝八角三重塔説明 この塔は一見、四重塔に見えるが、昭和27年長野県最初の国宝として指定された折、初重の屋根はひさしに相当する「裳階(もこし)」であるという見解で、裳階付き八角三重塔として認定された。建立年代については詳らかではないが、安楽寺が鎌倉北条氏の外護によって栄えた寺で、開山樵谷惟仙(しょうこくいせん)禅師が入宋僧、二世幼牛恵仁(ようぎゅうえにん)禅師が中国よりの帰化僧として住職していた頃、また当地に守護として信州一円に威を張った塩田北条氏が館を構えていた鎌倉時代末期(1277~1333)以外に考えられないというのが定説になっている。塔は本来、仏舎利(釈迦の遺骨)を奉安したものだが、中世以後は特定の人物や戦死者の供養のために建てられた例が多く、恐らくこの塔も北条氏の供養塔として建てられたものと考えられる。建築様式は当時、中國宋代の先進技術であった唐様(禅宗様)を用い、扇垂木・弓形連子・詰組など、和様の塔とは違った重厚な佇まいを見せている。八角塔は奈良・京都などに記録として残されているが、それらが失われた今日、我が国に残された唯一の八角塔であり、禅宗寺院に残る塔としても極めて貴重な遺構である」
↓国宝・八角三重塔
↓弓形連子
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