〇朝六時、道の駅あつみを出立し昨日来た道を三瀬(さんぜ)まで引き返し、人の動きださぬ前に機先を制して曾良随行日記にメモされている幾つかの地点をこの目とカメラでチェックして回る、ほぼ成功。三瀬では笠取峠を発見。八時には今日の仕事をほぼ終えていた。国道7号線は停車させるには危険な道なんだが、随所に停めて撮影。洗濯は鬼の居ぬ間にするに限る。
〇鼠(念珠)の関を過ぎて直ぐに左折するコースを選ぶ(国道7号線から外れる)。芭蕉の辿った旅路の臭いが最もするから。さらに小名部から右折して「日本一山」の麓を通るコースを選ぶ。これも芭蕉の通った臭いがするから。小俣宿に最短で出た。芭蕉は鼠の関まで海岸線を行ったが、曾良は温海温泉に寄るため温海宿を出発するとき芭蕉と別れて、以後山道を辿って小俣宿まで来たろう。二人は越後国の中村(上中)宿で落合うが、小俣宿から中村宿の間は同じコースを時間を違えて(多分芭蕉が先行して)通行したはず。今日の試行で芭蕉が辿った出羽街道ルートはほぼ解明された。
〇午後先ず新発田城を探訪。大手門と二の丸隅櫓が重文。新発田城を田舎の城と侮ってはいけない。洗練された美しさがある。新発田城はごく一部の城域しか残っていない。大部分は隣接する陸上自衛隊が使用している(多分戦前、陸軍が接収した)。意外なのは城を元通りの城域に復元する運動が新発田市で行われていること。気を付けねばならない。このような運動には、得てして自衛隊を廃絶することによって達成される・その先の戦略戦術を描いて、純情な市民の運動に組織的に・目的的に潜伏介入するイデオロギー勢力があることを。早い話が、かつての城域の大部分を占有するのが自衛隊でなかったらこんな運動が起こり得たか。
〇次に探訪したのが、阿賀町の「護徳寺・観音堂」重文。ボクは阿賀町は阿賀野川の下流域にあると思って行ったのだが、ナント山奥も奥、ほとんど西会津に近かった。60kmは下道を走って行った。苦労の果てに見たものは、素晴らしい茅葺の観音堂だった。明るい陽光の下にいきなりこの世のものでないような姿を現した。不思議な輝きの元を探求したら分った。御堂の四周の杉の大木をすべて伐採して陰気さと目の邪魔を取り払ったのだ。一辺に五、六本の大木の切り株があったから、×4で都合二十数本が伐られた。切り株はいずれも新しい。住職のこの決断は凄味がある。村人の反対もあっただろうに。茅葺屋根は新しくて綺麗だった。修復事業の完成を機に実行したのだろう。ボクは光り輝く観音堂を拝観させてもらったことに感謝するとともに、観音堂を輝かせるために命脈を断った杉達を哀悼して合掌した。ここの観音堂との出会いの瞬間は感動的。
〇感動的な境内の姿・雰囲気に出遭えたのは次の「種月寺(しゅげつじ)」も同じ。新潟市西蒲区にあるのだが、ほとんど弥彦山の麓。阿賀町からこの寺までがまた一層距離があった。もっとも磐越自動車道に乗れたので時間的には短縮。曹洞宗の寺院。今も清冽な気風が境内に満ちている。茅葺の巨大な本堂の存在感が素晴らしい。写真に果たしてこの感動が収録されているかどうか。
〇午後七時過ぎ、妙高高原池の平の定宿・ペンションシェーネに滑り込んだ。疲れ果てていたので風呂に入らず直ぐに夕食にしてもらった。熱燗二合を飲んだ。明日はやわやわと帰路を辿る。
ゴールデンウィークも相変わらずの旅が出来て、結構ケッコウ!
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返信削除5-4(木)鶴岡市金峰神社本殿登頂は無謀でした。500mの山頂への道は急で大石を乗り越えて登らねばならず、老衰・貧血症のボクは三度死にかけました。体調が悪くなりました。今後は無理をすまいと自覚しました。
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