〇広八幡神社は重要文化財の多さから言えば抜群の神社。楼門・拝殿・本殿・若宮社・高良社・天神社と六棟もある。圧巻。由緒をたどると古代に河内国誉田(こんだ)八幡宮より勧請されたとの伝承があるがはっきりしない。「紀伊続風土記」によれば、室町時代初期(応永年間)に現在地に遷宮したとの記録がある。天正年間に豊臣氏の紀州征伐により堂塔社殿の一部を焼失したが、江戸時代には紀州徳川家の手厚い保護を受けて次第に興隆したことは確か。江戸時代に刊行された「紀伊名所図会」によれば、境内には仏教の堂塔が描かれて神仏習合の社寺だったことが分る。明治の神仏分離により仏教堂塔は各所に移築された。
↓重文・楼門、室町時代↓舞殿。和歌山県指定文化財。この舞殿の音響効果は物凄い。宮司が、舞殿に入って床を踏み鳴らしてみなさいというのでやってみると音響がいつまでも続く。あぁ~と声を出してみなさいというのでやってみるといつまでも反響している。まるで銅鐘を打った時の余韻の様。実に不思議。仕組みが分っているんですかと問うと、分らないとの答え。
↓舞殿から拝殿を望む
↓重文・拝殿、室町時代
↓拝殿から神門・本殿を望む
↓瑞垣越しに本殿を見る
↓瑞垣の隙間から重文本殿と重文若宮社を覗く↓重文・本殿。室町時代
↓重文・若宮社、室町時代
〇瑞垣の隙間にデジカメを入れて撮影していたら、いつの間にか宮司が立っていて話しかけてくる。「どちらから来ましたか」。ボクは、罰当たりなことをするなと怒られるのかと思ったらその顔は笑っている。「石川県、文化財探訪の旅をしています」と答えると、ほほうと感心して色々な事を話してくれる。以下の写真は、その後に撮ったもの
↓拝殿、瑞垣・本殿
拝殿
↓手前から重文高良社(こうらしゃ)・室町時代、重文天神社・江戸時代
↓重文・高良社
↓重文・天神社
↓左・高良社、左・本殿
↓重文・天神社
↓左手前から天神社、高良社、本殿、若宮社
↓本殿。左端・高良社、右奥に若宮社
↓重文・若宮社。室町時代
↓舞殿
↓楼門
↓左側に在るのは、天神社の拝殿
↓天神社拝殿。奥に在るのは重文・天神社
〇境内案内図
〇左端に⑬「濱口梧陵君碑」があることに注目。宮司がこの濱口梧陵のことを沢山話してくれた。「稲むらの火」のことも
↓この広八幡神社案内図にも「濱口梧陵翁碑」が描かれている。山の左側麓↓中央やや下に●広八幡神社があり、その直ぐ上に●濱口梧陵碑が示されている
↓左側に「濱口梧陵碑」。右側は広八幡神社
↓「平成28.10.11和歌山特報 昨年制定された「世界津波の日」の基となった実話”稲むらの火”のふる里・広川町で同物語の主人公・濱口梧陵の遺徳を偲び、地震・津波防災についての再認識を促す恒例の「稲むらの火まつり」がことしも広川町役場前ほかで‥‥に行われる。‥‥稲むらの火の行列(午後6時~)広八幡神社へ。途中の田んぼで「稲わら」に点火し、梧陵が162年前に行った行動を再現する。広八幡神社の行事(午後6時40分~)▼タイマツ奉納・神事▼「平安の舞」▼フラメンコ‥‥▼炊き出し(避難訓練を兼ねて)。‥‥」〇フラメンコは音響効果最高の舞殿で舞われるが、音響に煽られて最高に盛り上がるそう
↓以下、佐々木宮司から戴いた資料のうちから
〇津波の襲来を予感し高台の自家のその年の収穫の稲むらに火を放って村民を誘導して救った濱口梧陵の話は、戦前「小学国語読本」にも取り上げられた。広八幡神社は津波の避難場所に指定されている
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