〇金胎寺は不思議な寺。南山城の奥山・鷲峯山(しゅうぶざん)687mの山頂近くにある。真言宗醍醐寺派。神仏分離前は修験道と一体化していた。明治維新時・修験道が禁止され寺勢は急速に衰えて往時の面影はない。戦後信教の自由が宣言され修験道は禁止を解かれたが寺勢の回復は願うべくもない。以下に示すのは、深山に今も必死に生き延び護持されている日本古仏教の古刹の姿である。
↓右の道は車で登って来れる。左の道は歩いて登る
↓「これより先山内・入山料三百円、ご協力の程よろしくお願いします。鷲峯山金胎寺」
↓山門。ここから境内が始まると思いきや、中は、
↓寺務所。300円はここで賽銭箱のような入れ物に自発的に寄進する。貴重なパンフレットが置かれている
↓寺務所の左を奥に進むと、
↓修験道の行場に行く道がある。「ここから・行場、入山料三百円」。ボクは本堂・多宝塔境内に行くつもりでこの道を辿った。が、途中でどうも変だと思い直して引き返した。そのまま進んでいたら大変なことになった
↓引き返し、山門を出て、最初に見た「史蹟・金胎寺境内」の石碑まで来た。この近くに坂道がありそれを登って本堂境内に行くらしい
↓「金胎寺は、山岳霊場の拠点として7世紀の終りごろ役行者が開いたと伝えられ、養老6年(722年)大澄大師によって再建中興されました。その後、伏見天皇が退位後この寺で出家し、多宝塔を建立しました。江戸時代にも修験者の行場として盛んであったらしく、大和の大峰山に対して『北の大峰』と称されたと伝えられています」
↓本堂。かなり傷んでいて修繕を要する状態。屋根はトタンで補修されている
↓重文・多宝塔。鎌倉時代後期の建立。補助金により修復できたらしく、建造物ではこの塔だけが保存状態が良好
↓左・多宝塔、右・本堂
↓本堂の右手に行くと大師堂が在る
↓大師堂は修復を要する危険な状態になっていて「堂内立入禁止」となっている
↓鐘楼も一見して傾いていて危ない
↓行者堂。堂の前に護摩を焚く場所が設定されている
↓行者堂。この堂も保存状態が悪化して「立入禁止」
↓役行者(えんのぎょうじゃ)像が祀られている
↓行者堂の屋根の上の宝珠が落下したらしい
↓行者堂の前で、毎年大護摩法要が行われる。修験者が集まる
↓もう一つの重文・宝篋印塔はさらに登らなければお目にかかれない。
↓宝篋印塔に至る道。ボクは貧血・低血圧の身なのでこれ以上の登山を断念
↓ここで無人の寺務所で入山料を寄進した時に戴いたパンフレットが力を発揮。これが重文・宝篋印塔。正安2年(1300・鎌倉時代後期)の銘がある
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