2018年6月22日金曜日

〇6-17(日)越前勝山「平泉寺(へいせんじ)白山神社」(1)日本一の緑の苔の絨毯

〇白山崇拝修験道の越前登山口に立地するのが「平泉寺白山神社」。明治維新まで神仏習合の典型だった。今仏閣は全く見られない。
旧表参道
↓石畳参道が今も残っている。この石畳道は日本有数の古さと長さを誇っている
↓神社参道の入口前に「東尋坊跡」碑がある。東尋坊は、越前海岸にある景勝断崖絶壁海岸。この断崖が東尋坊と呼ばれる由来は、乱暴あるいは恋愛関係で恨みを買って此処から突き落とされた平泉寺勝山市)の僧の名前によるとされる。
↓「白山神社」の石碑の上端部の「縣社」の文字が埋められている。官幣社もしくは国幣社とされなかったことが不満だったとみえる。明治維新で「修験道」が禁止された。神仏混淆が最も濃密な宗教だったから。この修験道禁止のせいで縣社どまりになった。この神社の規模・様態・格調からいって官幣or国幣大社の資格は十分あった。


〇参道に芭蕉句碑がある。
《うらやまし浮世の北の山桜》 金沢の門人・句空宛に贈った句。浮世の北とは金沢を指す


〇境内図
「白山神社社務所・元北国白山平泉寺本坊」


↓参道続き
↓参道脇の八幡神社
↓鳥居の奥に拝殿が覗いている
拝殿
〇境内は緑の苔の絨毯に覆われている。司馬遼太郎は京都の苔寺も足元に及ばないと評した












↓開山堂。泰澄大師を祀る
↓拝殿の背後、一段小高くなっている境内に白山の三峯の神々を祀る本殿が建つ。
右に《別山社》(白山別山の神を祀る)、その左に《御本社》(白山御前ヶ峯の神を祀る)、更にその左に(よく見えないが)《越南知(おつなんち)社》(白山大汝(おおなんじ)ヶ峯の神を祀る)


御本社本殿
越南知社




↑「天正2年(1574)兵火に懸かって消失する以前は、正面45間という我国最大の拝殿だった。今も左右に残る巨大な礎石が規模の雄大さを物語る。」









〇この後、南谷の平泉寺僧坊群・石畳道遺跡の発掘現場を訪れる。加賀一向一揆門徒の軍事力を借りた越前一向門徒衆の夜襲火攻めにより一夜で灰燼に帰するまで、この谷には3600坊の僧坊があったという。僧兵が無慮3000名はいたということ。平泉寺境内を挟んだ北谷には2400坊あったというからこちらには無慮2000名の僧兵がいた。戦国時代平泉寺白山神社は9万石の大名の実力があったという。修験道がそれだけ隆盛を誇っていたということ。そして浄土真宗一向門徒軍団が、天台宗修験道僧兵軍団を下したということ。戦国時代は宗教戦争の時代でもあった。

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