長州藩の大組藩士であった野山六右衛門の屋敷と、同じく大組藩士であった岩倉孫兵衛の屋敷は道路を隔てて向かい合わせであった。正保2年(1645年)9月17日の夜、岩倉孫兵衛が酒に酔って野山六右衛門の屋敷に押し入り、家族を殺傷する事件を起こした。この時、岩倉孫兵衛は野山宅に幽閉され、のちに斬首の刑に処された。しかし、喧嘩両成敗により両家は取りつぶしとなり、屋敷が没収され、後に屋敷跡は牢獄に立て替えられた。
現在は史跡として整備され、重輔絶命の詩碑と松陰が重輔に与えた詩碑が建てられている。
↓野山獄
〇吉田松陰も野山獄に繋がれた。驚いたことに彼は牢内で囚人に学問を講じた。
↓「十一烈士絶命之処」 蛤御門の戦いで敗走した十一烈士が、幕府の長州征伐を前にしてこの野山獄で斬首された。それを悼んで石碑が建てられているが、十一烈士の墓は明治時代に毛利藩菩提寺の東光寺に建てられた。→「東光寺」の記事参照。
↓岩倉獄
〇両獄跡は、往時の獄のそれぞれ一部でしかない。
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