2019年6月18日火曜日

★奥の細道紀行 第19章 裏見の滝

曾良随行日記によれば、芭蕉と曾良は『四月二日 辰の中剋()(午前8時頃)、(上鉢石町「仏の五左衛門」の)宿を出。《ウラ見の滝》、《ガンマンガ淵》を見巡りて、漸く午(午後0時頃)に及ぶ。鉢石を立ち、奈(那)須・太田原へ趣く』
奥の細道》の文。《黒髪山は霞かゝりて、雪いまだ白し。
剃り捨てて黒髪山に衣更(ころもがえ) 曾良
曾良は河合氏にして、惣五郎といへり。芭蕉の下葉に軒を並べて,予が薪水(しんすい)の労をたすく。このたび松島・象潟の眺め共にせん事を悦び、且は羈旅の難をいたはらんと、旅立つ暁、髪を剃りて墨染にさまをかえ、惣五を改めて宗悟とす。仍(よっ)て黒髪山の句有。「衣更」の二字、力ありてきこゆ。
廿余丁、山を登って滝有。岩洞の頂より飛流して百尺(はくせき)千岩の碧潭(へきたん・青い淵)に落たり。岩窟に身をひそめ入りて、滝の裏よりみれば、うらみの滝と申伝え侍る也。》
暫時(しばらく)は滝に籠るや夏(げ)の初(はじめ)》

裏見の滝 この滝は日光三名瀑の一つで、高さ約19m、幅約2mほどの比較的小さな滝です。滝を裏側から見ることができたため、この名がつけられました。芭蕉翁も奥の細道の旅の途中この地を訪ねております。寛永元年(1624年)奥州の出羽三山から荒沢不動尊が迎えられ、名僧天海の命によってこの滝のところに安置されました。そして男体山、太郎山、大真名子山への信仰登山のための修行場となり、以来この地は荒沢と呼ばれ、行屋や茶屋などもでき、大変栄えたところです。」 地図の左下から上中央にかけて斜めに三山が連なっているが、左下から男体山・大真名子山・女峰山、そして左上に太郎山。
山中深く車で入り、ここからいよいよ徒歩で滝への道に入る。距離はたった500mだそう。
滝が見えてきた。


これが主滝「裏見の滝」。明治時代に滝の落ち際の岩が崩落し、以来一条の滝となったそう。水量によって全く違った風に見えるそう。昔は滝の落ち口の岩頭が出っ張っていて滝の裏側に空洞があり、その空洞に入り込んで滝を裏側から見ることができたという。今はその岩頭が崩れ落ちて滝の様相が変わった。
↓落ち際の岩が崩落して一条の滝となっている今の落ち際の具合はかくの如くV字型にえぐられている。しかし芭蕉が訪れた当時の滝の落ち際は向かって左側にも幅広に伸びていて滝の形状はいわばすだれ()型だったろう。そして簾の裏側にあって滝を裏から見れた洞窟というのが写真中央の暗い凹み部分だろう。この凹みの表を簾状の滝が落下していた。
  芭蕉が(多分)籠った洞窟に至る昇り道が見て取れる。左下から昇って行く。


湧出水が細い滝となって幾条も流れ落ちている。白糸の滝の趣がある。
凹み部分(洞窟)への昇り口の少し左にこの綺麗な副滝がある。
さらに左にある滝も風情がある。
もっと左にあるこの滝は、滝というには可憐すぎるが細い水糸が幾筋も尾を引いて繊細な優美を感じさせる。



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