2019年6月24日月曜日

★奥の細道紀行 第26章 鹿子畑(かのこばた)翠桃邸跡

黒羽城館代浄法寺桃雪の弟・鹿子畑翠桃邸跡を探訪。この人も芭蕉を連日訪れ又自邸にも招いて歓待してくれた。黒羽到着の四月三日は兄桃雪邸から20丁程後戻りして翠桃邸で泊まった。
↓農家の裏に「鹿子畑翠桃邸跡入口」の碑が立っている。よっぽど注意しないと目に入らない。大田原市黒羽余瀬(よぜ)地区

 ↓「史蹟・鹿子畑翠桃墓地」 この辺りに邸もあった。

 墓石群
 翠桃氏の墓石と思われる(黒羽文化協会発行「おくのほそ道」より引用)。
〇碑・表面「不説軒一忠恕唯庵主」(法号)
〇碑・裏面「きゆるとは我は思わし露の玉 色こそかはれ花ともみゆ覧」(辞世)
「鹿子畑翠桃邸跡と墓地 「おくのほそ道」行脚の途次、芭蕉は余瀬に住む門弟の鹿子畑翠桃(豊明28歳)を尋ねた。 時に元禄243日(陽暦5211689)であった。翁の黒羽滞在1314日の中で、兄浄法寺桃雪(高勝29歳城代家老、郭内に住む)方と、弟翠桃方に交互に泊り、その間郊外を逍遙しては、歴史・伝説の地を訪い、寺社に詣でまた歌仙も興行した。
奈(那)須余瀬 翠桃を尋て
秣(まぐさ)おふ人を枝折の夏野哉 芭蕉
青き覆盆子(いちご)こぼす椎の葉 翠桃‥‥」

↓「松尾芭蕉と余瀬地区 元禄2年(1689)に江戸を発った俳聖松尾芭蕉は、弟子の曾良と共に「奥の細道」行脚の途中黒羽の地を訪れ、旅程中最も長い14日間逗留し、知人や多くの史跡を訪ね、次に向かう「みちのく」の地への準備期間をここで過ごした。宿泊先は、江戸において芭蕉の門人であった黒羽藩城代家老浄法寺図書(号桃雪)宅と、その弟鹿子畑豊明(同翠桃)宅であった。翠桃宅のあった余瀬地区は、律令制により全国に設置された七道のひとつである「東山道}(平安時代においては関街道又は秀衡街道)が通り、その宿駅(粟野宿)として栄え、また室町時代から戦国期にかけては、大関氏(のちの黒羽藩主)の居城(白旗城)があり、交通・軍事の要衝の地でもあった。芭蕉は翠桃宅に5泊逗留する中で,歌仙の興行を行ったり、ここを起点に犬追物の跡や、篠原の玉藻の古墳、金丸八幡宮(那須神社)などを訪れ、多くの句を残している。現在でも道路の方向や経路は、芭蕉が訪ねた当時の状況とほぼ変わらない面影を残しながら、南は大田原、佐久山に通じ、北は次に向かった那須や白河へと通じており、往時俳聖が辿った軌跡を訪ねることのできる地である。」


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