2019年6月5日水曜日

〇5-2(木) 大野城市「水城(みずき)跡」古代大宰府の防護ライン

Wikiより 水城(みずき)は、福岡県太宰府市大野城市春日市にまたがり築かれた、日本古代である。日本書紀』に、「・・・。また、筑紫国大堤(おおつつみ)を築き水を貯へしむ、名づけて水城(みずき)と曰ふ」と、記載されたである[白村江の敗戦後、倭国には新羅軍侵攻の脅威があり、防衛体制の整備が急務であった。天智天皇三年(664年)の唐使来朝は、倭国の警戒を強めさせた。この年、倭国は辺境防衛の防人(さきもり)、情報伝達システムの(とぶひ)を対馬島壱岐島筑紫国などに配備した。そして、敗戦の翌年に筑紫国に水城を築く。また、その翌年に筑紫国に大野城が築かれた。ともに大宰府の防衛のためである。水城は、大野城のある四大寺山(大城山)と、西側の大野城市牛頸(うしくび)地区の台地の間の、一番狭いくびれ部を塞ぐ形で造られている。全長約1.2キロメートル×高さ9メートル×基底部の幅約80メートル・上部の幅約25メートルの二段構造の土塁で、東西の端部の東門と西門が開く。土塁の基底部を横断して埋設された木樋(もくひ)は、長さ79.5メートル×内法1.2メートル×内法高さ0.8メートルである。土塁の博多側の現水田面より5メートル下に、幅60メートル×深さ4メートルほどの外濠が存在する
 ↓森が水城跡。その前面の田は外濠跡。博多湾側




 ↓水城東門跡。官道が通じていた


 ↓東門から続いていた水城跡の森

 ↓東門傍の水城資料館










 ↓水城の内堀側。大宰府側


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