2019年6月6日木曜日

★奥の細道紀行 第5章 千住宿(矢立初めの地)

松尾芭蕉は芭蕉庵を人に譲ったあと「採茶庵」に仮寓していたが、その杉山杉風所有の「採茶庵」の目の前の仙台堀川から舟に乗り墨田川に出た。そして墨田川を遡り千住宿に至った。多くの門弟・門人・友人が千住宿まで別れを惜しんで見送りに来た。千住宿、ここで芭蕉は舟を下り陸に上がった。327日午前11時頃のこと。見送りの人達とはここで別れた。いよいよ曾良との二人旅。
奥の細道》《弥生も末の七日、明ぼのゝ空朧々(ろうろう)として、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。むつましき(睦まじき)かぎりは宵よりつどひ(集い)て、舟に乗て送る。千じゆ(千住)と云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ(思い)胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪(なみだ)をそゝく(注ぐ)。
行春や 鳥啼魚の 目は泪
(ゆくはるや・とりなきうをの・めはなみだ)
是を矢立の初として行道なをすゝまず。人々は途中(みちなか)に立ならびて、後(うしろ)かげのみゆる迄はと見送なるべし。》
曾良随行日記》『巳三月廿日★1、同出★2、深川出船。巳の下剋、千住に揚る』
1 芭蕉は三月二十七日に出発したと書き、曾良は三月廿日出発と書いている。曾良は一週間早く千住に向かいそこで歌枕や旅程の情報収集をしていたとみる説が有力。
2 「同出」は「日出」とみる説が有力。
千住大橋北詰にある足立区立大橋公園の「奥の細道矢立初めの地」石碑。
 ↓公園の目の前に旧千住宿の入口がある。建物に書かれた文字は「千住宿・奥の細道」。松尾芭蕉の銅像が右隅に立っている。
 ↓芭蕉像。恵比寿さんの様にふくよかな像。こんな艶福風な芭蕉像は外に見たことがない。
 千住には日々関東の青果物が集まりその日のうちにここから江戸市中に卸されて市場として大繁盛していた。市場の活況ぶりは「やっちゃ場」と称された。
 ↑「やっちゃ場の由来 やっちゃ場は多くの問屋のセリ声がやっちゃいやっちゃいと聴こえてくる場所(市場)からきたと言われている。古くは戦国の頃より旧陸羽街道(日光道中)の両側に青空市場から始まり、江戸・明治と続き大正・昭和が盛んだったと聞いている。以下略」
 やっちゃ場時代の写真発見(大正時代)
 ↓旧日光街道筋(現県道)
 ↓「千住宿歴史プチテラス」入口に立つ芭蕉句碑

鮎の子の しら魚送る 別哉  芭蕉
(あゆのこの・しらうおおくる・わかれかな)
鮎も白魚も墨田川を遡上してくる魚だが、その時期にズレがある。芭蕉と見送りの人達との別れの場面を象徴しているらしい

0 件のコメント:

コメントを投稿