2019年7月22日月曜日

★奥の細道紀行 第64章 佐藤庄司が旧跡

奥の細道》《月の輪のわたし(文字摺石の北約一キロ余にある阿武隈川の渡し)を越えて、瀬の上と云う宿に出づ。佐藤庄司(しょうじ)が旧跡は、左の山際一里半斗(ばかり)に有り。飯塚の里鯖野(★註)と聞きて尋ね尋ね行くに、丸山と云うに尋ねあたる。是、庄司が旧館也。梺(ふもと)に大手の跡など、人の教ゆるにまかせて、泪を落し、又かたはらの古寺に一家の石碑を残す。‥‥》
(★註) 「鯖野」は、第66章に「鯖湖湯」として登場する。
「大鳥城跡 入口」 城跡は丸山にある。


大手門にゆく道。今は通行止め。
丸山山頂。本丸跡。
↓「大鳥城址碑」

↓三本の塔、右から「祭神佐藤基治候嗣()信候忠信候」「大鳥神社」「佐藤基治公一族追善供養塔」。中央は大鳥神社。


「大鳥城跡 大鳥城は、西に連なる尾根を切断して空濠とし土塁を築き、山腹に清水井戸を掘り構築された典型的な山城で、白鳥を埋めて守護神としたことから生じた名である。12世紀の初め、藤原氏が奥州を支配し平泉に都城を構え、その一族の佐藤氏が信夫荘の荘司(湯の庄司とも称さる)となりここに居館を構えた。親族の西行法師(★註)が陸奥を旅しこの地に安らぎを求めた頃は小平泉の観を呈し賑わいをみせていたといわれている。城主基治の子継信・忠信は源義経に従って出陣、継信は屋島にて義経の身代わりに戦死、忠信は吉野山にて義経一行を救うも捕われて京都にて自刃、城主もまた文治5年8月、義経追討の鎌倉勢を石那坂に迎撃し戦死、同月13日落城。今は館跡をはじめ城戸・矢庫・空濠・一二三の取出・清水井戸等の跡に往時を偲ぶのみである。城主一族の墓所は、対岸(鯖野)の医王寺にあり、俳聖芭蕉の句碑がある。   笈も太刀も五月にかざれ紙幟 」
(★註) 俗名は佐藤義清(のりきよ)。元北面の武士、23歳で出家。藤原秀郷の9世の孫という。
本丸からの眺め
飯坂温泉


0 件のコメント:

コメントを投稿