2019年7月25日木曜日

★奥の細道紀行 第68章 ②馬牛沼

奥の細道」には「万ギ沼(馬牛沼)」は出てこない。
曾良随行日記」に出て来る。『桑折(こおり)トかいた(貝田)の間二伊達ノ大木戸(国見峠ト云う山有り)ノ場所有り。コスゴウ(越河)トかいた(貝田)トノ間二福嶋領(‥)ト仙台領(‥)トノ堺有り。‥‥さい川(斎川)ヨリ十町程前二、万ギ沼(この沼が「馬(ま)牛(ぎ)沼」)万ギ山有り‥』
↑「馬牛沼 九世紀のはじめ頃、蝦夷征伐に馬を進めてきた征夷大将軍坂上田村麻呂は、この地方にはびこる悪路王や青頭・赤頭など鬼形の者たちに、苦しめられている村人たちのことを知った。そこで、田村麻呂は齋が川で身を清め、鈴鹿明神の助力を得て悪者を退治した。村人はその徳を慕って、祀ったのが田村神社のはじまりと伝えている。この湖畔は、この時の田村将軍の乗馬が沼に落ちて死んだことから馬入沼ともいい、また、沼の中の弧洲が馬に似ているため馬形沼と、さらに、馬首牛身の魚獣が泳ぎ回っていたので馬牛沼と呼ばれたとの伝承がある。この沼は明治30年頃から養鯉場になり、晩秋には名物の「沼乾し」の行事で賑わい、湖中には鯉供養碑が建っている。湖沼の北側の山は馬牛館跡で、伊達宗・晴宗父子争乱の天文年中には、桑折播磨景長が籠って戦ったとの伝承がある。その館下の道は、遠く源義経が鐙を摺ったといわれ鐙摺石(あぶみすりいし、別称あぶみこわし)の難所であり、奥州街道最大の難所であった。」
↓以下「万ギ沼(馬牛沼)
↓背後に見える手前の山が「万ギ山」らしい。沼を周回して背後の山々の中を走り回ってみたが、「万ギ山」(馬牛山)を特定する標示は見当たらなかった。

↑↓「鯉供養」碑

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