2019年7月29日月曜日

★奥の細道紀行 第70章 白石市「甲冑堂」(田村神社)

現在の福島市から源義経に臣従した佐藤継信・忠信兄弟は忠義の神髄を示して、兄継信は屋島の戦いで義経の身代わりに強弓の前に身を挺して戦死し、弟忠信は吉野山で義経一行の窮地を救って捕えられ京都で自刃して果てた。それを知り深く悲しむ母(姑)を慰めるため、兄弟の嫁二人はそれぞれ夫の甲冑を身に付け夫の凱旋の晴れ姿を母に見せたという。
↑《奥の細道》本文碑。《ふたりの嫁がしるし、まずあわれなり。女なれども、かいがいしき名の、世に聞えつるものかなと、袂をぬらしぬ。》
国道4号線バイパスを行きつ戻りつ探しに探しても「甲冑堂」に至る道は発見できない。もう諦めようとして脇道に入ったら「斎川宿(さいがわじゅく)」の案内が出現。
曾良随行日記』に『さい川(斎川)ヨリ十町程前二、万ギ沼(「馬(ま)牛(ぎ)沼」)・万ギ山有り』とあったが、その通り、馬牛沼から10(1km)程来た所で脇道に入ると「斎川宿」の標識があった。
↓バス停があり、その名も「甲冑堂

↑案内地図まであった。右下に「馬牛沼」、中央やや右手に赤字で「現在地」、その直ぐ右に「甲冑堂」(黄色)、さらに右に「あぶみすり坂」。
「あぶみすり坂」を通り過ぎると、田村神社が出現
拝殿
本殿
これが「甲冑堂
佐藤兄弟二人の嫁の甲冑姿。古いお堂と像は明治時代に放火で焼失したそう。今見るのは昭和になって再建されたもの。
〇以上は2014年に探訪。その時は、甲冑堂内の嫁二人(義経に従事して戦死した佐藤継信・忠信兄弟の嫁)の凛々しい甲冑姿を鮮明に撮影できなかった。それが心残りだったが、昨日2016年8月28日(日)テレビを見ていたらアーカイブス番組「森敦の奥の細道行(2)」に甲冑堂が開かれて内部を撮影させている場面が出てきた。ボクは泡を食ってデジカメを取って来て辛うじて次の画面を撮った。これで十分ではないか。ボクの奥の細道紀行・田村神社「甲冑堂」の章は完成した。


甲冑堂の傍らに「桃隣句碑」が建つ。桃隣は芭蕉の高弟。
 「いくさ()めく二人のよめ()や花あやめ」
曾良随行日記』『‥‥次信(継信)・忠信が妻の御影堂有り。同(53)晩、白石に宿す』


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