『曾良随行日記』を読むと芭蕉と曾良の仙台での足取りが判明する。『四日 笠島を見ずに行き過ぎ、名取川・若林川を渡って、夕方仙台に着く。其の夜、宿・国分町大崎庄左衛門』 『五日 ‥‥①三千風尋るに不ㇾ知。其の後、北野や(屋)加衛門‥‥に逢い、委(委細)知る』 『六日 ‥②亀が岡八幡へ詣(もうでる)。城の追手より入る。‥』 『七日 ‥加衛門(北野加之(かし・俳号))同道にて③権現宮を拝す。④玉田・横野を見、⑤つゝじが岡の天神へ詣(もうで)、⑥木の下へ行く。⑦薬師堂、古へ⑧国分尼寺之跡也。夜に入り、加衛門・甚兵へ(衛)入来す。冊尺(短冊)并(ならびに)横物一幅づゝ翁(芭蕉)書き給う。ほし(干)飯一袋、わらぢ(草鞋)二足、加衛門持参す。翌朝、のり壱包持参す。‥』
〇芭蕉は四日夕方仙台に着き宿を取ると、翌五日、真っ先に「大淀三千風」を尋ねている。このことは、芭蕉の奥の細道紀行の目的の一つが仙台で「大淀三千風」に会うことだったことを窺わせる。そもそも「大淀三千風」とは何者だったのか。
彼は1639年松阪市射和(いざわ)生まれ。家は商家。少年時代に既に徘徊に志を抱いたが専念することは家業が許さなかった。31歳で家業から身を引き本格的に徘徊の道に入った。先ず歌枕として天下に著名な松島に旅した。そこから仙台に居を構え門弟門人を育てながら15年間の歳月をそこで過ごした。その間「大矢数」に挑戦して一日に3000句を詠むという偉業を達成し、以後俳号を「三千風(みちかぜ)」と称した。また全国の文人から俳句や歌を募集し『松島眺望集』を刊行した。芭蕉も「江戸桃青」として応募し搭載されている(大阪の井原西鶴、尾花沢の鈴木清風も応募搭載)。芭蕉が「奥の細道」松島への旅に憧れたのは、三千風のこの本を手にしたからこそ。
「松島眺望集」の奥書には「湖山飛散人大矢數寓言堂 大淀之三千風統焉 執筆 加之」とある。この「加之」こそが《奥の細道》で「聊(いささか)心ある者」、「風流のしれもの」と芭蕉の筆で書き留められた「画工加右衛門」である。彼は、三千風の高弟「和風軒加之=北野加之」その人であった。芭蕉と曾良は、三千風と加右衛門の関係を知っていた。だからこそ曾良は日記に「加右衛門」のことを「北野や加衛門」「加衛門(北野加之)」と表記したし、「三千風尋るに(その所在)知れず。その後、北野屋加衛門に逢い、委細(既に三千風が全国行脚に旅立っていたこと)知る」と書き留めた。
45歳になった三千風は、芭蕉が仙台に来た時には既に念願の諸国行脚の旅に出ていた。行脚7年間の記録が『日本行脚文集』7巻である。
彼は57歳の年の暮れ、西行の名歌 《心なき身にも哀れは知られけり 鴫(しぎ)立つ沢の秋の夕暮》の舞台とされた鴫立沢(しぎたつさわ・神奈川県大磯町)に居住し西行庵の再興に努めた。
66歳の春、生まれ故郷射和(いざわ)に帰り、その3年後 69歳で生涯を閉じた。
45歳になった三千風は、芭蕉が仙台に来た時には既に念願の諸国行脚の旅に出ていた。行脚7年間の記録が『日本行脚文集』7巻である。
彼は57歳の年の暮れ、西行の名歌 《心なき身にも哀れは知られけり 鴫(しぎ)立つ沢の秋の夕暮》の舞台とされた鴫立沢(しぎたつさわ・神奈川県大磯町)に居住し西行庵の再興に努めた。
66歳の春、生まれ故郷射和(いざわ)に帰り、その3年後 69歳で生涯を閉じた。
↓木の下公園にある「東住居士三千風翁之塚」
↑「大淀三千風供養碑 大淀三千風は、寛文9年(1669)~天和3年(1683)までと、貞享3年(1686)~同4年(1687)の計15年間仙台に滞在して、仙台の俳壇を開拓した伊勢国の俳人で、偉大な俳諧指導者でもあった。‥‥」
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