2019年9月27日金曜日

★奥の細道紀行 第103章 松嶋「瑞巌寺 ①法身窟」

奥の細道》《十一日、瑞岩寺に詣づ。当寺三十二世の昔、真壁の平四郎出家して入唐(にっとう)帰朝の後開山す。其の後に、雲居(うんご)禅師の徳化に依りて、七堂甍(いらか)改まりて、金壁(こんぺき)荘厳(しょうごん)光を輝かし、仏土成就の大伽藍とはなれりける。彼の見仏聖(けんぶつひじり)の寺(★註1)はいづくにやとしたはる。》
★註1 「見仏堂」は雄島にあった。
曾良随行日記』 『‥松島に着船。茶など呑て瑞岩寺、不残見物。開山、法身和尚(真壁兵四良)。中興、雲居。法身の最明寺殿被宿岩窟有。無相禅窟と額有。それより雄嶋(所には御嶋と書)所々を見る』
〇高校時代、民謡「大漁唄いこみ」を初めて聞いた。その高音域の男声は今も心に沁みているが、一題目の歌詞を忘れることはない。まつっしぃまぁあぁのぉ・さぁよぉお・ずいぃがんじぃほどぉの・てぇらぁもぉなぁあいぃとぉよぉぉ・あれはよぉぉ‥ 

瑞巌寺を訪れるのはこれで四度目か。「瑞巌寺程の寺」は歴史・由緒・規模・文化財の質量などで言えば全国に数多ある。が、風変りさでは群を抜いている。雄島は瑞巌寺の出先だが、そこで風変りさの一端に触れることができた。先ずは全国的にも希少価値随一の岩窟寺院ぶりから紹介する。
「国寶 瑞巌寺」(湾岸国道からの入口)
 ↓山門
 ↓「桑海禅林」の掲額
↓「瑞巌寺 ‥‥瑞巌寺は9世紀、慈覚大師を開基とする天台宗の寺院、青竜山延福寺(松島寺)として創建され、13世紀中葉、改めて法身を開山とし、臨済宗(建長寺派)の青竜山円福寺となったと伝えられる。法身(法心とも)は、常陸国真壁郡の俗名平四郎で、卑賤の身で発奮して仏門に入り、入宋して修業し、高僧になったといわれる。円福寺は、その後妙心寺派となった。慶長10年(1605)、伊達政宗は、衰微していた円福寺の再建に着手し、寺号を松島青竜山瑞巌円福寺(松島山瑞巌寺とも)と改め、4年を費やして大伽藍を完成した。建築は、全体として禅刹の風格を保ち、内部に極彩色の彫刻や金碧画の襖などを収め、桃山芸術の粋を尽くしている。本堂・庫裏・廻廊は、国宝に指定されている。雲居は瑞巌寺中興と言われる高僧で、政宗の招請を受け、伊達忠宗のとき、同寺99世を嗣いだ。芭蕉参禅の仏頂の師でもある。瑞巌寺境内の、嘉永4年(1851)建立の「松島の文碑」は、芭蕉碑中でも屈指のものであろう。碑の側面の句中、乙二(おつに)の句には「古今を圧して独り卓然」の子規評がある
 ↓山門を潜り直進すると中門に至る。

 ↓右手に折れると、岩窟が続く。



 ↓山門から直進して中門近くまで行くと、左手にある法身窟
〇法身の最明寺殿が被ㇾ宿(やどられし)岩窟である。格子戸上部の額の字は読みとれない。「無相禅窟」と認めてあったのか不明。
↓「法身窟 鎌倉時代中期(13世紀半ば)、諸国行脚中の北条時頼が、後に臨済宗円福寺の開山となる法身性西(法身性才、俗に真壁平四郎)と出会った場所と伝えられている。正安2年(1300)京都嵯峨天龍寺開山の夢窓国師がここを訪れた時、無人の窟内から天台止観を講ずる声が聞こえたという。窟内には時頼の法名碑・当山中興雲居国師行状碑・三陸海しゅう(津波)供養碑等が所狭しと納められている」


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