2019年10月15日火曜日

★奥の細道紀行 第121章 平泉「卯の花清水」《卯の花に兼房みゆる白毛かな 曾良》

〇「卯の花清水」は平泉の街の入口にある。 

↓「卯の花清水 文治五年閏四月、高館落城の時、主君義経とその妻子の、悲しい最後を見届け、死力を尽くして奮闘し、敵将諸共燃え盛る火炎の中に飛び込んで消え去った白髪の老臣、兼房、年66。元禄2年5月、芭蕉が、門人曾良とこの地を訪れ、「夏草」と、「卯の花」の2句を残した。‥‥行き交う旅人よ、この、妙水をくんで、心身を清め、渇をいやし、そこ、「卯の花」の句碑の前にたたずんで、花に涙を注ぎ、しばし興亡夢の跡をしのぼう。」


 《卯の花に兼房(かねふさ)みゆる白毛(しらが)かな 曾良》
〇老臣・兼房は「義経記」のみに現れる。架空の人物だというのが定説。義経が京都で大臣公家の娘を正室にもらったとき、正室の守役として付いてきたとされている。
〇Wiki 十郎権頭兼房(じゅうろうごんのかみかねふさ)は、室町時代初期に成立した軍記・伝奇物語『義経記』に登場する架空の人物。源義経の北の方(正室)である久我大臣の姫の守り役で、元は久我大臣に仕えた63歳の武士。義経の都落ちに北の方と共に付き従う。平泉高舘での義経最期の場面では、北の方とその子である5歳の若君・亀鶴御前と生後7日の姫君を自害させ、義経の自害を見届けて高舘に火をかける。巻八「兼房が最期の事」では敵将長崎太郎を切り倒し、その弟次郎を小脇に抱えて炎に飛び込み壮絶な最期を遂げた。
江戸時代松尾芭蕉と共に平泉の高舘を訪れた河合曾良が兼房をしのんで「卯の花に 兼房みゆる 白毛かな」と句を詠んだ事でも知られる。
なお、兼房が登場するのは義経記のみで、義経の北の方とされる久我大臣の姫、その子亀鶴御前と生後間もない姫君はいずれも架空の人物であり、歴史上では義経とともに死んだ正室は河越重頼の娘の(さと)御前で、子は4歳の女児のみとされる。

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