2019年10月26日土曜日

★奥の細道紀行 第134章 平泉中尊寺「白山神社・能舞台(重文)」

〇光堂、経堂・旧覆堂と伝って行くとその先すぐに「白山神社」がある。芭蕉がこの神社を訪れたという記載は《奥の細道》にも『曾良随行日記』にもない。しかし、事態の流れ・歩みの勢いというものがあり、訪れていないと断言もできない。
 ↓白山神社。中尊寺の鎮守社。加賀の白山権現を勧請した。




 ↓白山神社・能楽殿。重文。この能舞台、一見して異彩を放っている。旧舞台は江戸時代末に焼失し、この舞台は嘉永六年(1853)に伊達藩主により再建された。時代が浅いので重文に留まっているが、モノは国宝級。美しい。






↓「白山神社由緒 ‥‥(神社は)嘉永2年正月8日(1849)の火災で焼失した。現在ある能舞台は嘉永6年(1853)伊達藩主伊達慶邦朝臣から再建奉納されたものであります。(平成15年国の重要文化財指定)‥‥現行の能舞は、天正19年時の関白豊臣秀次と藩主伊達政宗両公が当社参拝の節観覧に供し以来続行今日に至っている。明治9年秋には明治天皇が御東巡の折りに当社に御臨幸あらせられ、古式及び能舞を天覧あらせられました」


〇曾良随行日記に平泉で「月山・白山」を見たという記述がある。「月山」については、泉ヶ城跡を巻くように流れる衣川の畔に月山神社がありその神社が立地する小富士のような山が月山だろうと推定できた。「白山」は現地ではどうしても発見できなかったが、こうして白山神社の章を報告してみて気が付いた。この白山神社の立地する山が、曾良の云う白山ではないかと。そうだとするとボクは《奥の細道》と『曾良随行日記』に平泉の段で登場するすべての旧蹟、地名を探訪したことになる。
〇この後、芭蕉と曾良は一関の宿に戻って二泊目の夜を過ごし、翌朝、出羽の国を目指して奥羽山地を横断して一路西へ進む。

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