2019年11月2日土曜日

★奥の細道紀行 第148章 天童市「山寺・立石寺」

奥の細道》《山形領に立石寺と云ふ山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊に清閑の地也。一見すべきよし、人々のすゝむるに依りて、尾花沢よりとつて返し、其の間七里ばかり也。日いまだ暮れず。梺(ふもと)の坊に宿かり置きて、山上の堂にのぼる。岩に巌(いはほ)を重ねて山とし、松柏年旧(しょうはくとしふり)、土石老いて苔滑らかに、岩上(がんしょう)の院々扉を閉ぢて、物の音きこえず。岸をめぐり、岩を這ひて、仏閣を拝し、佳景(かけい)寂寞(じゃくまく)として心すみ行くのみおぼゆ。
閑さや岩にしみ入蝉の声 》
曾良随行日記』『廿七日 天気能。辰ノ中尅(午前8時)、尾花沢ヲ立テ 、立石寺へ趣。(鈴木)清風より馬ニテ館岡迄 被送ル。尾花沢。二リ(里)、元飯田。一リ、館岡。一リ、六田 (山形へ三リ半、馬次間ニ内蔵(俳人)ニ逢)。二リよ、天童。一リ半ニ近シ、山寺(宿預リ坊。其日、山上・山下巡礼終ル )。未ノ下尅(2時半頃)ニ着。是ヨリ山形ヘ三リ。
山形へ趣カンシテ止ム(★註)。是より仙台へ趣路(おもむくみち)有。関東道、九十里余。』
★註 山形に赴くことも考えたが止めたらしい。
↓「山寺(やまでら) 宝珠山立石寺を中心とする山寺は、清和天皇の勅許をいただいた慈覚大師により、貞観2年(860)に開かれたと伝えられています。全山を構成する角礫凝灰岩は、永年の水蝕と風蝕を受けて奇岩怪石となり、これが樹木の間に見え隠れする姿は、四季折々に本当にすばらしい景観となっています。また、境内地の参道石段は、立ち並ぶ句碑や板碑とともに苔むして、老杉や怪石の間にはたくさんの堂塔が建てられ、千古の静寂をたたえています。元禄2年(1689)には、俳聖松尾芭蕉が門人の河合曾良とともにこの地を訪ね、
閑さや岩にしみ入関の声
の名句を「おくのほそ道」に残しています。」
↓本堂へ


↑「山寺立石寺と根本中堂 ‥‥。慈覚大師は、辺境の東北各地に、多くの寺院を建立したが、立石寺の創建には特に力を入れ、明るく正しい人間を養成する道場を確立し、鎌倉時代には、東北仏教界の中枢をなして、山上山下三百余の寺坊に一千余名の修行者が居住、盛況を極めた。戦国時代、山内が兵火をあびて一時衰退したが、江戸時代には、御朱印2800石を賜って再び隆盛を見、宗教文化の殿堂を築きあげた。現在の立石寺は、境内35万坪の自然の岩山に、40余の堂塔を配し、平安初期以来の山岳仏教の歴史を物語る、日本を代表する霊場である。
 正面の大きな建物は、国指定重要文化財の根本中堂である。延文元年(1356)初代山形城主・斯波兼頼が再建した、入母屋造・五間四面の建物で、ブナ材の建築物では日本最古といわれ、天台宗仏教道場の形式がよく保存されている。
 堂内には、慈覚大師作と伝える本尊の木像薬師如来坐像をはじめ、文殊菩薩、毘沙門天などが安置され、伝教大師が中國から比叡山に移した灯を立石寺に分けたものが、今日も不滅の法灯として輝いている。織田信長の焼打で延暦寺を再建したときには逆に立石寺から分けたという、不滅の法灯を堂内で拝することができる。

あきらけくのちのほとけのみよまでも ひかりつたえよのりのともしび 」
↓本堂・重要文化財


↓本堂境内に神社がある。日枝神社


↓芭蕉句碑。背後に清和天皇御宝塔がある。
《閑さや岩にしみ入蝉の声》
清和天皇御宝塔
↓念仏堂


↓下段中央に念仏堂と鐘楼が見える。
  ↓山門。いよいよ山上・奥ノ院に挑戦、石段は一千余段。




↓姥堂。これが最初の堂宇。奪衣婆が居る。










↓修行者の参道


↓四寸道。道幅が四寸しかない。




↓せみ塚 「‥‥芭蕉翁の句をしたためた短冊をこの地に埋めて、石の塚をたてたもので、せみ塚といわれている。」
↓手前の四角柱には「せみ塚」、背後の丸い碑には「芭蕉翁」とある。
↓せみ塚の背後に聳える岸壁。これぞ、「岩にしみ入る」の岩に相応しい。
〇蝉塚を後にする。


↓弥陀洞


↓阿弥陀如来の姿が(見える者には)見えるというのだが、ボクには見えなかった。
↓仁王門が見えた。
↓仁王門の背後に見える岩。ガマのように見える。入定窟というらしい。
↓仁王門


↓向かいの山。岩窟に修行者が籠って修行したんだそう。今はそんな殊勝な人はいない。
↓仁王門に着いた。


↓性相院(しょうじょういん)。手前の建物は観明院(かんみょういん)
↓開山堂方面を見る。
↓手前の堂宇は観明院か。
↓開山堂
↓金乗院(こんじょういん)
↓中性院(ちゅうしょういん)


↓開山堂と納経堂


↓中性院
↓見える御堂は胎内堂か。昔胎内くぐりが行われたが、今は通行止め。危険。
↓昔修行者が籠った。現在立入禁止。


最上義光公御霊屋
↓中性院。奥ノ院手前の塔頭。
↓いよいよ奥の院へ
 ↓奥ノ院到達




 ↑「正面右側の古いお堂が奥ノ院とも言われる如法堂で、開山・慈覚大師が、中國で修行中に持ち歩いた釈迦如来と多宝如来を本尊とする。石墨草筆の写経道場で、明治5年に再建された。
 左側の大仏殿には、像高5mの金色の阿弥陀如来像を安置し、毎日、卒塔婆供養を行っている。秋、彼岸の中日の施餓鬼法要は、宗派を超えた数千人の参拝者でにぎわう。
 奥の院まで一千余段の石段を、一段一段登ることによって、煩悩が消滅され、幸福になれるという。」

 ↓奥ノ院・如法堂・霊鷲(りょうじゅ)道場
 ↓「霊鷲道場」
 ↓大仏殿






 ↓華蔵院
 ↓重文・三重小塔
 三重小塔が見えにくい・写しにくい。




 ↑「大正天皇東宮時・山寺行啓行在所」




 ↑修業の岩場


 ↓開山堂へ


 ↓途次


〇以下は、山寺・立石寺の写真で有名な光景である。
左、岩の上の小さなお堂が「納経堂」。右の堂宇が「開山堂」


















 ↓開山堂の右横をすり抜けて「五大堂」に行く。
 ↓頭の上の屋根のようなものが五大堂の床。
 五大堂から見た天童市山寺地区。右寄りにJR山寺駅が見える。
 ↓釈迦が峯の稜線。やや右側の尾根にお堂が見えるが、それは釈迦堂。今は道が閉ざされ危険で誰も行けない。
 ↓釈迦堂。絶壁過ぎ。
 ↓五大堂。五大堂と云う以上、その昔、五大明王像が祀られていたに違いないが、今は全くのがらんどう。右手前に一部見えるのは、盤司祠(ばんじほこら)。神が祀られているんだろう。


 ↓下山
 ↓下界に下りてきた。「抜苦門(ばっくもん)」。ここは本堂境内の内。
 ↓立石寺・本坊
 ↓立石寺を後にして車道を歩いていて撮影。左側の崖は多分百丈岩(蝉塚の背後に聳えていた岩)。崖の右上に小さく見えているお堂が多分「五大堂」。
〇こうしてボクは立石寺の探訪を午前中に終え、最上川に向かう。芭蕉と曾良は下山したとき夕暮れだったので、予約してあった立石寺の宿坊に入り一泊した。
〇芭蕉は、尾花沢~山寺は馬に揺られて旅した模様。《曾良随行日記》で察しがつく。
『曾良随行日記』『(五月)廿七日 天気能(よし)。辰ノ中剋(たつのちゅうこく・午前8時半頃)、尾花沢ヲ立ちテ、立石寺ヘ趣く。(鈴木)清風より馬ニテ館岡迄被ㇾ送(おくられ)。‥‥(‥、馬次間に内蔵(人名)ニ逢う)‥‥、山寺(宿預かリ坊。其の日、山上・山下巡礼終わル)。未の下剋(ひつじのげこく・午後2時半頃ニ着く。‥‥』


0 件のコメント:

コメントを投稿