ところで芭蕉はどうして新庄へ行って二泊した事実を抹殺したのか。《奥の細道》最大の疑問点。
↓ここは船形町。左の鳥居を潜ると旧「猿羽根峠」へ行く。右のトンネルは国道。
↓峠への途中に石碑が建っている。
「明治天皇御召換所址」 旧羽州街道であったことの証拠
↓「猿羽根山地蔵堂」に行く道案内
↓一里塚。旧羽州街道であったことの証左〇「三賢人が越えた峠の道」松尾芭蕉、斎藤茂吉、イザベラバード
↓「猿羽根峠は最上郡と村山郡を分ける峠である。江戸時代の国道である羽州街道は、峠の山頂を経て南北に通じていた。元禄2年(1689)奥の細道をたずねた俳人松尾芭蕉は、この道を辿って新庄に向かった。芭蕉が猿羽根峠を越したのは、この年の旧暦の6月1日(7月17日)暑い日差しの中であった。芭蕉の随行した曾良の旅日記によれば、この日の朝8時頃、二人は馬で大石打を出立し、猿羽根峠を越して舟方に至ったとある。大石田の俳人高野一栄・高桑川水が、阿弥陀堂まで見送ってくれた。舟方からは歩いて新庄に入り、ここで二泊して、土地の俳人たちと歌仙をまいた。6月3日芭蕉主従は新庄を出立、最上川を下って羽黒山に向かった。当時の猿羽根峠は大木の茂ル嶮しい山道であったに違いない。芭蕉はこうした旅の苦しみの中で独自の俳風を確立していった。」
↓芭蕉句碑
〇「風の香も南に近し最上川」「この句は、「曾良俳諧書留」に「盛信亭」と前書きした新庄の□谷九郎兵衛宅での三つ物の発句である。‥‥」
〇猿羽根峠に着いた
↓これより「新庄領」の石碑
↓復元された峠から村山郡方面に下る羽州街道。多分途中から草木の中に没する。
↓峠からの眺望。山形県村山郡方面
↓最上川が見える。右が下流。この辺りで大彎曲を三度重ねる。
↓旧国道が見える。今は別にバイパスが開通している。
↓「綬子宝・猿羽根山地蔵菩薩」。ここの地蔵尊と刀伐切(なたぎり)峠の地蔵尊が兄弟だと、なたぎり峠の案内書に書いてあった。
0 件のコメント:
コメントを投稿